読んだもの

聴いたもの

見たもの

  • MADMEN Season 2―1/2

レイモンド・チャンドラーの「長いお別れ」は、一月くらいに買って少しずつ読んでいたのだけど電車内で無くしてしまうというミスがあり、改めて4月に買いなおして読み終えた。内容が半分も理解出来なかった。何故だろう。周辺情報が少なすぎるのだろうか。そもそも細々とアメリカ産ミステリーを読み継いでいたモチベーションというのは、遥か4年も前に限界小説書評というサイトで前田久氏と前島賢氏のラノベ評を読んで、その後同サイトに誰かが書いていた矢作俊彦作品の評を読んだからであった。ちなみに今過去のブックマークを漁ったら、限界小説書評はサイトごと消えていました。だから、ここでの内容もかなりうろ覚えになってしまうのだけど、確かその矢作評では、ハードボイルド作品の源流としてアメリカ産のミステリーが参照されており、ダシール・ハメット、チャンドラー、確かエルロイ、等が列挙されていて、彼らに共通するのは、探偵(や警察官)という社会的境界線上に立っている人々に読者=筆者=主人公という擬似的な視点を確保した上で、そこから多層的な社会像を把握しようという試みがあった、というような意味の事が言われていたような気がする。違っていたら申し訳無いです。

ラノベ繋がりなのかどうか分からないのだけど、最近ラノベづいている人から「これ面白い」と言われて、「アクセル・ワールド」も読んだ。面白い。やっぱりラノベってヒロインの口調が重要だなーと思わされた。イラスト、セリフ、地の文という三つの要素がキャラクターを如何に実体化させるかという点に全てを注ぎ込むのがラノベ文体の本質だなぁ。テキストなのにビジュアルを極度に意識しなければいけないというこの矛盾。

マッドメン第2シーズンについて。折角古い顧客を切って、大手顧客へのプレゼンの機会を得たのもつかの間キーマンがいきなり解雇され、一度に既存顧客と見込顧客両方を失ったスターリング・アンド・クーパー(主人公が勤めている広告会社の名前)。シーズン1の最後の方からチラホラ登場していたイギリス出身の中途採用者のプランだったのだが、この人の責任はどうなるんだろうなぁ。主人公ドンの上司でロジャーという白髪アメリカンスーツのステキ親父がいるんだが、この人もこの人で「old business is just old business」とか割り切り良すぎ。このあたり、例えば日本のドラマだと一話丸ごとで、重苦しくねっとりと描けそうなのに、ドン以外は殆ど意に介していないのがアメリカン。また、ドンの浮気と交通事故、ペギーというクリエイティブ部門の女の子、ドンをライバル視する営業部ピートの子作り問題がオーバーラップする部分が面白かった。

音楽について。とりあえず電車用音楽としてジャズとかを聴いていたのが昨年の夏くらいからだとすると、そろそろ行きつけのツタヤのビル・エヴァンズは総ざらいした気もするので、別のものを物色中。

先日、一日の前半が結婚式で後半が結婚披露宴の飲み会という休日があった。後半が港区西麻布だったんだが、その時に再開した人に「秋葉原千代田区の西麻布みたいなもんだよな君にとってはな」というレトリックを言われた。2次会まで行って飲んでいたのだが、その日は結婚していない人がくだを巻いていて、どういう人と結婚したいか、またどのように結婚までのモチベーションをあげていくのか?等を聞いた。結婚というポイントに全てを持ち込む推進力、それは経る歳と執念以外には無い。そして執念を捧げられるだけの対象が持てないなら、今結婚はかなり難しい。そうですか。それと、音楽を昔やってた人に最近の大学音楽サークル事情を聞いた。相対性理論を聴いている音楽好き大学生は、音楽サークルに入っている人の一割に見たない。チャットのえっちゃんは歌っている時が一番可愛い。芸能人なら宮崎あおいが好きだといったら、大学で宮崎あおいみたいな人にあったら自転車に乗りながらハイロウズを絶叫しているようなヤツなので警戒フラグを立てた方が良いとのことだった。

先週マックで大学のけいおんサークル的な人々が新入生とライブのMCについて語っていた。新入生でけいおんにいたことを明言する奴はローカルルールでは演奏に自信がある(と自分を認識している)ひと、と認知される。ライブのMCについて。2010年1月現在の日本ではライブのMCで最も心配されるのはすべるか、すべらないかという点にある。内輪ネタなら特定層にしか訴求せず、一般論だとターゲットがぼやけ、より大きいメディア(テレビとか)だと、マンネリに陥る。今時のけいおんな悩みは割と深い。ところかわって本日のマックでは新入生が大学の音楽サークルについて語っていた。まあ正直、うちの大学の音楽サークルってどこもぬるいよ、アコギとか弾き語り系は未だにゆ×とかだしさ、バン×とか演奏してくれたりもするんだけど…うーん…多分先輩もうちらが何好きかとかわかんないから困ってんだろーねだからバ×プとかア×カンとかになっちゃうんだろうけど、ってさあ聞いてよ意外とタメでもさあ×ンプとかエ×レとかマジで好きな子とかいんだよーアハハ何かそういう子とかの前だとホントポイントで褒めてあげるしかないよねーって、え?馬鹿になんてしてないよーホントホント。にしても××(不明)とかボーカルだけ見てカッコイイ!とかっていうのはツライよねーツライツライツライ!音楽聴いてんのか?って思うわあ。洋楽?え、日本語で歌えば良くない?ここ日本じゃない?


という。新入生けいおんも大変だよ。携帯から更新。

思想地図Vol5に掲載されている遠藤知巳の「文学/批評の社会学―批評の社会学」という文書を読んだ。「感想もそこそこにひたすら読み継がれていくパルプフィクションの膨大な集積が、それ自体で社会を観察しているかのようだ」という見方が面白かった。それと佐藤俊樹の「サブカルチャー/社会学の非対象性と批評のゆくえ―世界を開く魔法・社会学編」という文章も読んだ。「ゼロ年代の批評はサブカルチャー社会学をねじれた形でつなげてきた。サブカルチャーに関しては、売れる/売れないという評価軸を採らず、社会学に関しては、よく売れた著作のみを先端的で同世代的としてきた」、という一文が今回の思想地図をはっきりと表現していると思った。やっぱり編集人同士方針があわなくなってきてたのかなぁ。良く分からんが。

トクヴィルアメリカのデモクラシー」第一巻下巻からいくつか

今日、合衆国では、社会の富裕な階級はほとんど完全に政治の実験の外にあり、富は、この国では権利があるどころか、不評を招く確実な原因であり、権力に至る障害と言ってよい。そこで、金持ちたちは、もっとも貧しい同胞に対して、たいていは不利な戦いをするよりは戦場を離れる方を選ぶ。(中略)、公的生活を捨て私生活に閉じこもるのである。第2部第2章P20

民衆の知識をある一定の水準に引き上げることは、いずれにせよ不可能である。人知を分かりやすくし、教育方法を改善し、学問を安価に学べるようにしたところで無駄である。時間をかけずに学問を修め、知性を磨くというわけには決していかない。つまり働かずにいき生きていける余裕がどれだけあるか、この点が民衆の知的進歩のこえがたい限界をなしているのである。(中略)しかし、限界がまったくなくなるためには、生きるための物質的配慮から民衆が完全に解放されねばならず、それはつまり民衆でなくなるということにほかならない。第2部第5章P54

1下巻トクヴィルがこの後延々繰り返していくキートーンが頻出する。トクヴィルは民主主義について、優良なシステムとは考えていない。政策を実行するにせよ、法律を制定するにせよ、それが正確に、また精密に実行されるなら、貴族制がはるかにましと考えている程だ。トクヴィルが民主主義をそれに付帯するシステムを評価するのは、それが貴族政体が腐敗した時より民主主義が腐敗した時の方がまだましだ、という一点に尽きているように思える。だからトクヴィルは、この後デモクラシーやそれが当時最も発展していたアメリカの未来(具体的には先住民問題等)について、相当に暗い予想図を画き出している(それが相当程度当たっているので、今でも読み継がれていると思う)。

家事全般を一人でやるようになってから、家にいる時間が凄く長くなった気がする。ますます人に会わなくなっていく。仕方が無いので、USTREAMをつけると東浩紀が実況をやっている。その間もタイムラインは快調に流れていく。楽しそうだなぁ。でもオレがいたら楽しく無くなるだろうなぁ。彼らは何と言うか超人だ。インターネットにあれだけ繋がりながらきちんとリアルと関係性を保っている(ように見える)というのは、無理だ。何か、最近友達にこのところの東浩紀は良く分かんないって言ったら(その友達と一緒に涼宮ハルヒの消失を見た)、オレは始めからわからねーよ的な事を言われました。そうですか。その時はあんまり上手く言葉に出来なかったんだが、まぁ当然今も分かりません。とりあえずゼロ年代が終わって、多分あれだよね、東さん的に語るに足る対象(作品とか人?)が見つからなくてイライラしてんだろうなーってのは何か伝わってくる(勘違い)。で、オレも何だかんだ一般意思だとかそういうのも好きだしそういうのとエロゲーをそういうのと絡めても良いんだが、あんまり好きな物探しを人任せにしてても良く無いんでトクヴィルとかハードコアなものを読んでいます。とそんなことを考えつつ、Podcast文化系トークラジオLifeを聞く。ここのところLifeは話題に切迫感がありすぎて軽く鬱だ。リアルタイムウェブとか経済成長とか、当事者としてリアクションを誘引する話題というレベルならまだ落ち着いて聴いていけるけど、そこに隣の人と奪い合うかまたは革命か(いや実際そういう二者択一を迫られるものもあるとは思うんですがね、というか迫られてる人が多い昨今ですが)、という枠組みを持ち込まれるとどうにも辛い。やる気が無いので枠組み自体から降りたくなってしまう。または、特定の弱者カテゴリーに納まりたくなる。実際には、割り切れる弱者等そういないというのは頭では分かっているにも関わらず、だ(追記)。それと、最近事象そのもの(例えばTwitterとか?)と話題に取り上げるまでの期間があまりに短すぎて、これでもまだ情報収集が足りないのか…自分が時代についていけてねーのかと錯覚してしまう。まぁその一方で、リアルではそんなのと逆の事もある。何と3月も半ばになって知人から「フリー」をハードカバーで渡されて「読んでみろ」と言われた。確かLifeでは年末くらいには話題にあがっていたよなぁ…。ちなみに名前と論旨をネットで聞きかじって、全然興味が持てなくてはなんだかな…という気分で読んだ。だが、意外なことに面白かった。企業するとか思わなかったけど。フリーに書いてある事はあたりまえのことだ。ただ、その経済規模とフリー経済がどのように現実に影響を及ぼすかは参考になった。いやーフリー経済が徹底されたら日本の労働者の大方は失業ですね。フリー経済が「成立しない」場所の方が先進国では少ない。だが、それが裾野まで行き渡りモノカルチャーよりパフォーマンスを上げられるかどうかはそれこそ国によって違う。あと文化観によっても違う。それがどう作用するかは国よって違うよね、だけどその解説は、それはエッセンスでは無くて個別具体的なコンサルティングだからフリーじゃないんだよね!それと、取り上げている中国の偽ブランド話もかなり惹かれる内容だった。アンダーソンによれば、偽モノのブランドは本モノの別ヴァージョンと捉えられる。また消費者はそれが偽モノだと理解した上で買う、というアレ。オチは無い。

最近の良く聴く音楽。かなり傾向が固定的になってきていて、ハードコアなものは減ってきている(ギャングカルチャーを背景にした示威的な音楽や電波的アニソン等)。世間的にも、ことアメリカではヒップホップはエレクトロと混ざってきているような。無論金の鎖を付けてニューエラのキャップを被って、キャデラックに乗るというのも一つの振る舞いで、根強いような気はするんだけど、それプラスで多分威張らないヒップホップというのはもう一つの勢力なのかなぁと。

ローカルな背景から発祥した音楽が洗練されると、カニエウェストのように日本のファッションと連動してみたり、キッド・カディがミラノのエレクトロミュージシャンと連動したりということになって、何だか面白いなぁと思う反面、でもやっぱりそうした連動する際に必要なコンテクストってのは誰か整備しなきゃいけなくて、いやもっと言えばマッチポンプだったりするわけで、あー自己啓発ってこういう時に使われるんだな…と村上隆の本読んだりして考えた。

脱線したけど、超ローカルは洗練されるとグローバルな論理と連動出来るというのはかなり興味深い。

文章が壊れてたのでいくつか追記、手直しをしました。

読んだもの

これから読むもの

聴いたもの

見たもの

2ヶ月で消費したものをまとめてみた。とある科学の超電磁砲は最終回まで飽きなかった。また見るアニメ探さないとな…。マッドメン、ファーストシーズンを見終わった。マッドメンが飽きないのは、舞台が1960年代の話なのに、絶えず現代からのフィルターを通した話づくりであるからだ。例えばシーズン1冒頭は、アメリカ議会がタバコを不健康な習慣であると近々発表するというテーマから始まる。今でこそタバコは喫煙すら制限される程の代物だが、ドラマではタバコは健康なアイテムというのが当時の認識だった(ドラマでは殆どの出演者が喫煙している)。ドラマでは、「健康なタバコ路線」が閉ざされた後のタバコをどうアドバタイズするかにほぼワンエピソードが費やされる。オチは省いてしまうが、このエピソードは当時のアメリカでのタバコ観が良く表されている。主人公の同僚は健康なタバコ路線が絶たれたと知るとすかざずジョークを飛ばす。「じゃあ、何か?パッケージにドクロマークでも入れておくか?」(現在では実際にタバコのパッケージにドクロマークを入れている国もある)。このような、過去から現在を照射するようなエピソードを交えた脚本づくりが徹底されている。マッドメンと、上に挙げたジェームズ・マンゴールドの映画、それからクリス・アンダーソンの「フリー」、最後にビル・エヴァンズのアルバムなどなど最近めっきりアメリカづいてしまっているのは、多分トクヴィルの「アメリカのデモクラシー」を読んだからだと思う。