先日友人と東浩紀動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)について色々話をしました。ちょうど岡田斗司夫プチクリ!―好き=才能!を読んだばかりだったのでかなり盛り上がり4時間以上も話したわけですが、僕はどちらかといえばサブカルしている人間なのでデータベース理論から「岡田斗司夫もうダメですね」的な発言を煽ったりしていました。で、彼はどちらかといえばオタクよりの人間なので「アズマックスは一部の状況を話としてでかくしすぎ」といった感じでした。まぁその場に本人がいないことに加えて、僕の側が生半可な知識を振り回したり、結局何が問題なのかすら漠然とした状況のまま話は終わりましたが、なかなか楽しかったです。僕としては岡田斗司夫東浩紀の間にそれほど乖離は無いということをプチクリを読んで感じたのですが、彼はそれに懐疑的であったようです。会話中にすれちがいもしばしばでしたが、なるほどなと思ったのは(よくよく考えれば当然なんですが…)現象としてオタクを捉える場合と個人としてオタクを捉えるのは全然別物ですよね…。そもそも東浩紀さんは北田曉大さんとの対談でも言われている通り、個人としてではなく、社会によって捏造された存在としてオタクを捉えていたようですし(たしか、ここ十数年での出来事ではないかという話をしていた?)、最近の研究者でそれを個人の側から定義づけようとしたのは斉藤環さんのような人です。だから平行線をたどるのは当然ですね。彼は結構濃いオタクな人で、安易な萌え現象に眉をひそめていたので余計に東浩紀さんの議論が一部のものと感じられたのかもしれません。また、どうも彼から見ると東さんの著書に挙げられていた作品群(たとえばデ・ジ・キャラットなど)をもってシュミラークルの象徴とするようなやり方が、作品を見ていない割りに上澄みをかすめとっているだけ、と感じられたようでした。実際はどうなのかは知りませんが。あとは現代思想がバックボーンに無いために実感のわかないことが多すぎるといっていました。それはそうかも。僕の方は、主に岡田斗司夫への違和感をぐだぐだと語りました。あの時は、うまく言葉に出来なかったのですが、今考えると「10年に一度の自分の宗旨変えを商売にしないで欲しい」ということでしょうか。まぁでも岡田斗司夫が本当に自分の本心を語ったのはぼくたちの洗脳社会 (朝日文庫)なので、それ以降の作品についてベタなマジレスしてしまう自分に非があった、というのが自分なりの折り合いです。とりあえず、その場では岡田斗司夫のオタク定義も結局一部の「求道的オタク」でしかない、という話をしました。そしてそれにあたかも普遍性があるかのような口ぶりは詐欺でしょ、と若干あおり気味に語りました(なんだかこれはこれで問題ありすぎな言い方ですよね後から考えると…)。だからオタクイズデッドじゃなくてオカダイズデッドなんじゃないのこの前のあれは?とも言ってしまいましたね。酷い。それに対して彼は、いや別に岡田斗司夫は全然普遍性を帯びているなんて言ってないですよ、という感じ。そういわれてみれば、3つの目の話をした時にはあくまで「べき論」だったかな、とも思いました。