グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

ご無沙汰しております。酔っぱらいモードなので適当にいかせて貰います。

原文も読めないくせに訳だけ読んでるのもオコガマシイと思う今日このごろなのですが。どうも僕は村上春樹に対してヘンな気後れがあるようで、彼の小説があまり好きになれません。それはポップな文体なり書かれている内容なり…というか主人公の世界に対する態度がいくつかの小説の場合自分の感情移入を阻止するためなのでしょう。まぁ個人的な事情は横に置くとしても、そういった村上作品のある種のクセは批評家石川忠司渡辺直己などによって大分我々一般的な読者にも分かるように解説されているようです。

曰く、「香ばしい」。曰く、「おすまし」。でも多くの人は彼を支持する。しかもそうした批評家があれこれ言ったところでそんなものがまるで無効であるような勢いすら感じます(石川忠司が読まれないのは特に不思議です)。

色々な彼に対する批評を読みすすめていく中で一番得心したのは村上春樹の小説が支持する背景が良く見えた事でした。もちろん日本語そのものを「リライト」した、という見方もあるしそれはオタク文化…というかラノベなどを読んでいてもとみに感じる事です。しかしもっとも大切なのは(それは上の二人の意見ではなく個人的な見方です、念の為)、彼の小説が80年代から続く消費文化にとても適合していたことだ、という事でした。それは彼の小説が、多くの場合お金と愛情に淡白な事に象徴的です。それはその二つに執着が薄い、というわけでは無くて当初からその二つを特別な対価を支払わずに得る環境にある、ということだと思います。初めからすぐに女の子と寝れて、お金もあるんだから、何をガツガツする必要があるんだよ?という感じでしょうか。

僕も大概に非モテなので、こんな事を理解するのに大分時間がかかりました。当初は何故この人の小説の主人公はこんなにモテるのに、饒舌に辛そうな「フリ」をしているのかが全く理解不能で、直感的にイヤだなと思ったのを覚えています。ですが、それを80年代に彼の小説が凄まじく売れていたということが分かると少しそうしたルサンチマンも納まったように思えます。

つまり僕が考えたのはこういうことです。別に村上春樹の小説の主人公がモテるからと言って別に彼が確実にそうであったとは言えない(笑)し、そんなことはどうでもよくて、問題は、バブル期にいたる高度消費社会において(何か社会学っぽい言い回しですね)それ以前の文脈上にあった「愛情」と「お金」がどんどん無意味化していったこと、そしてそうした空気を彼が上手くとらえていたから…と雑駁ですがそんな風に考えたわけです。もちろんそういう理屈でもこねないと悪魔祓い出来ないくらい村上春樹が嫌いだったので、という理由もあります。小谷野敦さんが、村上春樹が国外でも支持される理由は世界がマクドナルド化しているからだ、と言っていたのも一つ参考になったような気がします。

さて、個人的な理由に戻ります。こうして何とか悪魔祓いを済ませた自分ですが色々と気になる事はまだありました。まず一つ目は、彼の小説をそう少なく無い同世代が未だに支持している事。二つ目は、彼が紹介するアメリカ文学は、彼の小説が嫌いであるにも関わらず好きであるということ、です。

一つ目は謎です。誰か教えてください。二つ目については謎というより悩みに近いかもしれません。レイモンド・カーヴァージョン・アーヴィングなど、多くの翻訳を彼はものしていますがどれをとっても、彼自身の小説から感じるある種のいかがわしさはほとんど感じない。そりゃ当たり前だろう、村上春樹の小説じゃないんだから、と言われるかもしれませんがそうでしょうか?でも、少なくともあれだけの量の翻訳をこなすエネルギーが、彼の作家的義務感だけから生まれるでしょうか?僕はそうは思えない。間違いなく彼は彼自身が訳す作家に多かれ少なかれ肯定的な価値を見出しているに違いない。そして、僕も彼のそういう視線から紡がれた物語がとても良いと思う。何かこのあたり急速に信者っぽいのでアレですが、ともあれ彼自身の作品と彼が好んで訳す作家との間にある埋め難い溝は、かなり長い間疑問の一つなのです。

前置き長くてすいません。グレートギャツビーでした。作者のスコットフィッツジェラルド第一次大戦以降に青春時代を過ごしたロストジェネレーションと呼ばれる若干退廃的な世代に属しております。グレートギャツビーは1925年に発表されたので、今から約80年前の作品と言うことになりますね。あとがきで訳者自身が言うように彼のインプット(華麗な放蕩生活)とアウトプット(創作)が最も均整が取れたその時に書かれた、最高傑作と言われています。

訳はいくつか出ているみたいですが、僕は新潮文庫版しか読んだ事がありません。ちょっと比較しづらい。ただ「キャッチャーインザライ」のサリンジャーといい今回のグレートギャツビーといい恐らく村上さんが「僕の考える『グレートギャツビー』とはちょっと(あるいはかなり)違う」というのは恐らく野崎孝さんのそれを指しているように思えます。wikiを見ると、野崎訳も当時としては斬新だったみたいですね。 

1964年、J.D.SalingerのThe Catcher In The Ryeを『ライ麦畑でつかまえて』の題名で邦訳。この作品は既に1952年、"J・D・サリンガー"著『危険な年齢』として橋本福夫による邦訳がダヴィッド社から上梓されていたが、野崎は当時の深夜放送からヒントを得て、若い世代の語法と感覚に迫った訳文で当時の読書界に反響を呼び、庄司薫のような模倣者を生んで、2003年に村上春樹が新訳を出すまで約40年間にわたって定訳の位置を占め続けた。
野崎孝 - Wikipedia

さて一回話としては読んでしまっているグレートギャツビーなので、彼が訳したという事実以外はさして興味も持てないなぁ…と思っていたのですがそんなことはありませんでしたね。

グレートギャツビーは、第一次大戦後のアメリカの好景気が映し出す華やかな側面とその後の米国とフィッツジェラルド自身の運命を暗示するような暗い側面があるわけですが、野崎訳はどちらかと言えば、前者が凄く印象的だし、それとともに当時の焦燥感が伝わってくる。準主人公のニックという戦争から帰ってきた若者であり、かつ西部出身であり東部で働いているというあり方は、二重な意味でこの物語では異邦人がいるんですか、彼はやはり野崎訳では黒子というか認識者としての機能を見出されている。ギャツビーという存在が以下に際立つかに気を配られていたんだなぁと。

逆に村上訳ではニックやギャツビー、その他のキャラクターが等価に扱われている。全てのキャラクターのバックグラウンドが背負わされているように読めるわけです。そこではもちろんギャツビーはとても重要な役割を果たしますが、それ以上に僕が良いなと思ったのはそこにいる人がクロスしていくなかで先に書いた彼らがそこで失ったものが、鮮やかに描かれているところですね。そういう意味ではどちらかと言うと、華やかさはそれほど強調されないのですが(そういう部分は極力排したらしい)。喪失感。そういってしまうとつまりませんが、そこが良かった。

どっちが良いのかなぁ。好きな人は原文で読んでるんでしょうしねぇ。よく分からないんですが、僕は村上訳の方がよみやすかったです。それにしても、村上さんの価値基準が何で作品に反映していない、または反映していないように僕が読んでしまうのかはますます謎として深まりましたねぇ。酔ってるんでこのへんで。