一日三回も更新して何がしたいんだろう。この間友人を無理やり食事に誘ってメシを食べたんですが、何か微妙に映画の評価が云々などという小賢しい話になりまして。「面白ければ良いんだよ」ってのには別段感想は無いというか全く同意なんですがその時上手く相手に言えなかった事を文書化してみたいなと。どこかで百万回くらい話題がループしてそうなんですがね。

その時話題になったのは先日見たシティオブゴッドですげーすげーとオレがわめいていたんだけど。で、「娯楽である以上の事を作品には別段求めない」みたいな事を相手に言われてその場では「うーん…でもなぁーだったらチャーリーとチョコレート工場でもハリポタでも良いんじゃないかな。何かそれとはあの映画から感じたものは違う気がする」みたいに歯切れの悪い回答だったんですが(ちなみにチャーリーとチョコレート工場もハリポタも悪い映画では無いと思います、ただオレは好きではないです念のため)。

多分その時言いたかった事を今考えると、そもそも娯楽の定義が人によって基準が違うという事です。もちろん一般論として娯楽の定義付けは出来るかも知れない。映画で言えば、ハリウッド映画の洗練されたシナリオ技法が存在していますし、それは市場調査から逆算された製作技法です。ただ、それは小説で言えば人称がととのっているか、とか、キャラクターが埋没していないかというレベルでしかないのではないかと思ったりする。とりあえず「読める」、という水準。

だから、ただ「見れる」「飽きない」というレベルを満たせば即娯楽かと言えばそれは違うかなーとこれは思いつきだけどまず一つ。

次。またハリウッドを例にするけどアメリカでは日本以上に「人種」と「地域性」が映画をプロモートする上で凄く重要になっていて、これが向こうと日本の大きな違いだと思う。以前見た映画に「トレーニングデイ」というデンゼルワシントンが主演していた傑作があるんだけど、劇中のセリフとして「ここにはスターバックスなんて無いぜ」というのがあった。これは、デンゼル扮する黒人警官がイーサン・ホーク演じる新米の白人警官に「ホワイトカラーみたいな勤務は期待するなよ」というちょっとした含意とその後の危険な任務に対する前振りになっている。うろ覚えなんだけど、確か舞台はロスアンジェルスで最も危険な地域と言われるコンプトンだったと思う。

つまり、地域によってアメリカは全然住む人も違えばライフスタイルも全然違うので売れるものも違ってくるわけです。もちろん映画だってそうで、これまた古い引用になるけれど「ユー・ガット・メール」とか「トゥルーマン・ショー」とか、向こうではちょっと所得のある白人層にアピールしなくちゃいけないし、逆にシティオブゴッドみたいな映画は黒人層にもアピール出来る映画だろうと。娯楽と一口で言ってしまうけど、やっぱり人種によっても残酷なシーンがオッケーな人と嫌いな人とが割合くっきりしてるらしいのですよ。

まぁそんなこんなで娯楽「的」に仕上がって日本にエクスポートされるものが必ずしもかの地で地域を越えて普遍的に受容されてるなんてことは無いです。「全米が泣いた」っていう言葉をここまで額面どおりに受け取れるのは日本がまだ割合均質的な社会だからだと思う。メディア的な面からも人種的な面からも。

まぁこんなことを人前で長々喋るとアイタタタなんでこっちにメモしました。

それと、「やっぱりちょっと評論したくなるような映画(または作品)が好きなんでねーの」みたなツッコミももらってやっぱり「それはモゴモゴ…」とどもってしまったので一応書いておくと半分は当たってますな。その映画が好き自分が〜という理由で好き、と思う時はありますしね。ただ何と言うんでしょうか、例えば「愛の素晴らしさ」とか「戦争の悲惨さ」とか手垢の付いたテーマも結構ですが、「肉体」について考えただけで一本のSFアニメを撮って(分かる人には分かる)、そこに今まで見た事の無い世界が広がっていたらそれが僕にっとては娯楽なわけです。別にそれがハリウッド的に計算されつくされていようがそうでなかろうがあんまり関係はありません。そういう快楽原則は確かにあるにこしたことは無いけど、「娯楽」=「寝る暇が無かった」、「見てて飽きなかった」という基準を指すならそれは単に一つの評価軸に過ぎないし…というかそんなに貧しいんですかアナタの基準は?白痴的で幸せそうですねと。

ただ、その「寝る暇が無かった」=「娯楽」という評価基準から外れる時にどうしてそうなのか、人に説明するにはやっぱり言葉が必要になるよね?だから、人から見ると「評論したくなるような映画好き」って見られるかもしれないけど本当は別にそんなんじゃないですよ、と思った。つーか今日は脳汁出まくりですねゴメンネゴメンネ!以上。