以前のはてなブックマークを眺めていたら良いエントリーがあった。最初読んだときは強い印象に残らなかったけど、今改めて読むと色々と考える事もあるし、おそらく今のペースでブックマークしていると記憶の底に埋没して二度と出てこない気がするのでこちらに移しておく。

ともかくそういうわけで、私は批評という行為に少し危険を感じることがあります。もちろん、それがどんな体系であっても、それで感動できたのなら、その人にとってその感動は本物です。ニセモノの感動なんてありはしません。作者の意図から外れた読み方を誤読と言うのなら、作者の意図を超えた批評者の分析なんてそもそも積極的に誤読しようとする意思に他ならないんですから。「お前の感じている感動は間違った感動だ、正しい感動の仕方は俺が知っている」みたいな理屈はないのです。
魔王14歳の幸福な電波 - 「調教」される「批評家」たち

感動に真贋の基準が存在しないことには同意。あと、印象論だけど「正しい感動の仕方」を高説する人は、あまりいない。一番多いのは「あなたは単に貧しい人生経験のせいで/非モテをこじらせているせいで、そんな安い話に釣られて泣いてるだけですよ」みたいな梯子外し系じゃないかな。作品批評じゃなくて作品を消費するファン層の立ち位置の梯子外しを好んでやる人は多そう。