土曜日に帝国劇場で公演中のレ・ミゼラブルを見に行った。チケットは一番上の階で4000円。小説5冊分かよ。何で普段縁の無いお芝居に釣られたかというとこの芝居には坂本真綾が出ているから…だったんだけども、チケット貰ってから調べたらいっつもいるわけではないのね。

帝劇では一ヶ月に4人のエポニーヌを雇用しているらしく、それを順に出演させて入るようだ。詳しくは下参考。
http://www.tohostage.com/lesmis/top.html

で、レ・ミゼラブルの話はこんなの。

10月のある日、75歳になったディーニュのミリエル司教の司教館を、ひとりの男が訪れる。男の名はジャン・ヴァルジャン。貧困に耐え切れず、たった1本のパンを盗んだ罪でトゥーロンの徒刑場で19 年も服役していたのだ。行く先々で冷遇された彼を、司教は暖かく迎え入れる。しかし、その夜、大切にしていた銀の食器をヴァルジャンに盗まれてしまう。翌朝、彼を捕らえた憲兵に対して司教は「食器は私が与えたもの」だと告げて彼を放免させたうえに、二本の銀の燭台をも彼に差し出す。それまで人間不信と憎悪の塊であったヴァルジャンの魂は司教の信念に打ち砕かれる。迷いあぐねているうちに、サヴォワの少年プティ・ジェルヴェ (Petit-Gervais) の持っていた銀貨40スーを結果的に奪ってしまったことを司教に懺悔し、『正直な人間』として生きていくことを誓う。

時代背景。

作品中ではナポレオン1世没落直後の1815年からルイ18世シャルル10世復古王政時代、七月革命後のルイ・フィリップ王の七月王政時代の最中の1833年までの18年間を描いており、さらに随所でフランス革命、ナポレオンの第一帝政時代と百日天下二月革命とその後勃発した六月暴動の回想・記憶が挿入される。

以上全てwikiからの引用。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%82%BC%E3%83%A9%E3%83%96%E3%83%AB

で、芝居そのものはどうだったかと言うと凄かった。それは話が素晴らしいとかでは無く、肉体の使い方が凄いなぁという。

そもそも僕として一番興味深かったのは劇場と言う空間だった。まず観客が椅子に縛り付けられている(幕間に25分の休憩)。2時間椅子に座り続けるために4000円を払う人が日本にはいるのだ。しかも土曜日の昼間。あと俳優が歌い終わったりすると拍手。あれも一種の作法。次に舞台の俳優と女優もひたすら肉体を酷使し続けている。発声、演技、発声、演技、退場、衣替え、入場。以下繰り返し。何と言う重労働。

こういう観客と演者とのやり取り、一種のコミュニケーションがある。それが舞台。

次に芝居の舞台について。帝国劇場の舞台は上に回転する板みたいなのが付いていてそれが始終ぐるぐる回っていて演者はそこで歩いたり泣いたり殴ったりする。ここは学校時代の体育館とかと違って本格的。でも舞台脇と天井からものが降りてくるのは体育館の拡大版みたいなものか。

そうした環境の元で芝居とは何かね?と考えてみるが正直よく分からない。映画またはアニメほどの対象に接写することもないので臨場感に欠けるものだとも言えるし、かといって自分の目の前に人は確かに居て、しかも二度と繰り返しが効かないという意味では、相当ナマな行為だとも思える。

ただ映像を介している娯楽と直接的な娯楽は比較する対象を多分間違えていて、恐らく芝居は見る側にとっても演じる側にとってもスポーツみたいなもんだろうかなというのが当面の結論。アニメの場合、アニメーターは手を動かし、上がった絵を見て視聴者は顔面の筋肉を動かしたり口を動かしたりしている。つまりメディアを介さなければどっか整合性のない行為だ、お互い。

ところが芝居は見る側と演じる側も、今、ここに人がいるというのは分かっているので、ボディランゲージをしなければいけなくて、その表現として観客に許されているのが拍手という行為なんだな、と。ま、何かそんな事ぼやぼや思案してたらいつのまにか劇は終わっていた。革命の合間に売春したり三角関係になったり敵をあえて逃がしたり忙しい話だった。子供なのに一生懸命セリフ言ってた男の子がいて、印象的だった。面白かったので今度は坂本真綾が出てる時に行きたいなーというか坂本真綾は固定にしてほしい。