文化系トークラジオLifeで参照されていた、安達哲さくらの唄講談社漫画文庫版で読んだ。1990年発表ということで19年前の作品。前半と後半で大分トーンが違っていて、一巻では高校生活と突然家に押しかけてきたおじさんと高校生活、それから主人公の夢の話が描かれ、二巻から急速に転調し、前半部で仄めかされた不安が生活と夢を文字通り食い破っていく過程が写されていく。

Life的注釈を脳内に浮かべながら当時の時代状況とチューニングさせつつ読んでいたけど、後半のある意味でのぶち壊れっぷりでこちらの精読も崩壊、そしてもやもや感。読んで一週間たって考えたんだが、未だにもやもや感が具体化出来ないのだが、現状では「自分が後付けで植え付けられた90年代をこの話の横に置きつつ読めば、何となく、分かる…かな?」という感覚と「何も考えずに読むと前振りの多いエロマンガのような、ものなのか…?いや、僕はこういうエロは好きだけど…?」という感覚がごちゃごちゃと入り混じっているような。

前者の感覚であれば、割と「分かりやすい」というか、Lifeとかでも言われているところの「愛と性の分離構造を指摘した作品、性を得ることは愛を得る事がイコールではないんだ!」というなのかなぁと。では愛と性の間に何が挟まってくるのか、と言えばそれは金=何とでも交換出来る価値である、と。作者の金、ひいてはそれを生み出すシステムについての目線はかなりどす黒く厳しいものがあり、具体的な表現として土地成り金のおじさんであるとか、暴力であるとか、当時いたのかも知れないライダースジャケットを着た、ヘンなメガネをかけた、浅田彰みたいなインテリ学生であるとか、その他諸々当時バブリーであったらしい醜い有象無象全てとなって主人公を襲ってくる。僕は以前「何故村上春樹の小説に出てくる主人公がモテまくるのか問題」について、頭を悩ませていた時期があったが、この漫画を読むとそのへんはすっきりつながる感覚があった、個人的に。

つまり(村上春樹が主人公をモテまくるという現象を通じて含意したかった事は分からないけど)、当時(ハードボイルドワンダーランドが発表されノルウェイの森がベストセラーを飛ばし、このさくらの唄が読まれた1985年〜1991年)は、多くの人達がお金とその周囲を巡る観念(と実際にお金が具体的に形をとるところの土地、バブルの雰囲気、例えば女性の太い眉毛とか?)に疲れきっていたのではないか、そして、そうしたお金のが生み出すどうどう巡りからの退路として、こうした作品は読まれていたのではないか、という。村上春樹安達哲、二人に共通しているのは、方法論こそ違え、金が覆い尽くす最後の到達点を発見したところだと思う。

多分、後半のギャグマンガじみた性急な展開や(端的に読めばこれはやっぱりギャグだろ、とオレは思う)最後のオチも含めて、リアルタイム高校生だった人はこれを生の糧にしたんだろうし、そうした読みは何とか分かるような気がする、何とかのレベルではあるけど。「最初から自分信じてやってればよかったのよ」と、月並みなセリフを脳裏に刻み込めるのはこの作品でないと出来ない!というパワー凄い…とここまでが「自分が後付けで植え付けられた90年代をこの話の横に置きつつ読めば、何となく、分かる…かな?」というもやもや感を言葉にした結果である。あーでもやっぱり浅薄な読みだなって、再読すると思うけど。

では、「何も考えずに読むと、前振りの多いエロマンガなのか…?いや、僕はこういうエロは好きだけど…?」というのは、どう処理したのかと実は今でも良く分からないままだ。何か、それは僕がこのマンガが読めない、という事であり、上のような読み方があったところで、この主人公ってあまりに下衆過ぎるし(1回世間のルールを知ってしまったところ、つまり先生と関係を持っちゃうところまでは分かるんだけど、その後そのルールに味を占めて今度は自分が貪る側に立っちゃうって酷いだろ、という)やっぱり端的にストーリーは破綻している。自主映画上映会での先生の「魂の自由を!精神の解放を!」って何年前のギャグなんだよと、唖然としたし、こっからスゲー急展開なんだよね。これは別のリテラシーが僕に不足してるせいなのかもしれない。でも、90年前後のマンガを笑えるようなリテラシーを持った自分ってのも想像だに恐ろしく、何かリテラシーの限界を試されてエグゾーストしたぜってこれ読んで思った。