ぼんやりと過去のブックマークを遡っていたら。
http://d.hatena.ne.jp/crow_henmi/20070903#1188820122

そして、ヱヴァもまた、ウェルメイドで高水準なアニメとしての体裁を取り繕いつつ、その隙間隙間に旧劇場版以来の「破綻」と「剰余」の徴が仕込まれている。あたかもそれはこの作品が旧劇場版エヴァの「逆行ループ」であるか、さもなくばTV版26話における「シンジの望む可能性世界」であるかのごときアイコンが、作品中にちりばめられ「剰余」と化している。その有様は、この作品が庵野秀明自身による「エヴァの消費と、その戯れ」だ、とまで主張しているかのようだ。

このような仕掛けが、どのようにして機能するかはまだ判然としないが、少なくとも仕掛けられている以上、ただのウェルメイドなアニメとしてヱヴァが作られる、ということはなさそうだ。おそらく、この作品は、次作以降で大きくその姿を変え、そして終局においては決定的に「ウェルメイド」からは逸脱するだろう。そしておそらくは、旧作に対する自己言及的な形を取ると共に、未だにエヴァを「消費」し、エヴァと戯れている人々への、痛烈な総括がなされるのではないか、と予想する。それはあたかも旧劇場版エヴァ庵野が志し、そして失敗したことの再演、という形を取るのではないか。

ヱヴァンゲリヲンを見てから大分時間が経った。未消化感が漂っていたのだけど、2年前のブックマークに行き当たりこの予想が一番しっくり来た。

見た直後に色々考えてはみたけど、上手くあの映画が消化出来なくて、で、それは何故なのか、というのを中々言葉に出来なかった。プラス僕はそもそも何に期待していたんだろう、というのも良く分からないままもんもんとしてままうだうだしているこの2週間なのでありました。

結論から言うと、僕がヱヴァンゲリヲンに期待していたものというのは、無論「ウェルメイドで高水準なアニメ」という側面もありつつ、やはり一種の「放送事故」としてのそれであるらしい。

「ウェルメイドで高水準なアニメ」を生産出来るチームを擁しつつ、そこから出てきたのは一種の自己解体のような作品であったわけで、どう考えても商業的な枠組みからは外れていたのが旧作TV版だったと思う。それで、旧作映画版では何とかそれにオチを付けようとしたのだけど、やっぱりダメでした(また、そういうビジネスの側面と作品としての形式との間をとりもつ、という事そのものに当時のガイナックス及び作品中核メンバーがノリ気だったともあまり思えない)という、ダウナーかつ投げっぱなし感にはまった、という感じが今思い返すと間違いなくある。いやあった。今はそればっかじゃ流石につらい。

数少ない友人でアニオタの人と話をする時、このへんが今まで全然言語化出来ず、「いや、エヴァは文学として読めば良いんですよ」とか実存的側面から会話していて、かみ合わないことこの上なかったが、「放送事故」というカテゴライズを自分で発見して(引用文章中のcrow_henmiさんの言葉で言えば「破綻」と「余剰」)、勝手に幾分か楽になりました。

まとめると、多分僕にとっては「ウェルメイドで高水準なアニメ」を生産出来るチームが「放送事故」に一直線するというある種の滑稽さにあの作品とそれを取り巻く現象に面白さを感じていたのであって、それはつまり純粋な作品論とは、全然別物である、という事です。これはある意味で、エヴァの映像表現に費やされている膨大な努力を費やしている人達にとっては甚だ失礼は語りだと思いますし、そういった表現技術に明確な評価をもっている人々にも同様に失礼だとは思いますが。その点については本当にすいません。

話は大分逸れるけれども、そう言った意味では話が急展開すぐるとか唐突に挿入される林原歌がマジ笑えるんですがみたいなところも含めて僕はやや電波入ってる感が今回のヱヴァンゲリヲン良かったんではないかな、と思いました。ネタでは無いレベルで。何かあれこれネタにされ、場合によってはディスられてるポイント(綾波の「ぽかぽかする」とか僕も劇場でちょっと吹いた、けど、吹くと同時にやっぱレイ可愛いとか思った、そう思った人は少ないだろうが)も僕的には作品のアレなレベルを急上昇させていて、ポイント高かった。いや、むしろそういうポイントでしか今回の作品は計れないんじゃないかと積極的に思う。作品としては早くも崩れつつあるけども、意図としては相当なところまで受け取った、ような。つまり技術水準の高いところでそういう破綻を織り込むという荒業こそが僕的なエヴァなんだな、と。

あとは上の引用した文章でも予想されている通りに進むならはヱヴァンゲリヲンはオッケーということになるんじゃないかなーと思いました。まぁ結末の形にもよるんだけど。