先の読書についての追記。半径4クリックくらいでの情報探索。
http://ueshin.blog60.fc2.com/blog-entry-988.html

けっきょく、ビートニクカウンターカルチャーはたんなる「ライフスタイル消費」や「個性消費」といったカッコよさや憧れを生み出して、商品市場としての地位を獲得しただけではないのかと思うのである。カウンターーカルチャーは「カッコイイ私」を演出する。私はそれを購入して、反抗的で懐疑的で思索的な「深みのある私」をまわりや世間のアピールする。それだけではないのかと思うのである。

まあ、せめてもの責任と羞恥心をもつ者として、ケルアックやカウンターカルチャーの思想に共感するものがあるのとするのなら、生活の中にすこしでもそれの実践や深化をとりいれていってほしいものである。

全然関係無いけど上記記事で参照されている動画内でチャールズ・ブコウスキーという作家が酔っ払いながら他人に当たっているのが面白すぎる。本文自体は自己演出のツールとしてのカウンターカルチャーについての批判的考察。2009年の読者としては当時の若者があんだけ長い本を読んだ自体結構驚きだ。

http://www.catnet.ne.jp/f451/j982.html

全体を通して浮かびあがってくるのは、抜群の記憶力と語感で次々に作品を書いていったケルアックさんが、実生活上ではマザコンで、今の目でちょっと突き放して見れば女癖が悪くて気の弱いただの酔っ払いでもあったということ。新しいものに飛びつきながらも、キリスト教の保守的な世界観に縛られ、晩年はベトナム戦争に対して右翼的なとんちんかんな発言をして醜態をさらしたりしていたなんて、『路上』で「人間のために嘆くようになれ」と書いた作家も人の子だったんだなあ。

バリー・ギーフォードらがまとめた「ケルアック」について。これは後で読んでみたい。新訳を担当した青山南も参加した本らしい。

ほぼまとまった形で保存されていた「ブルース詩」の原稿群をまとめた詩集だが、主に合州国内やメキシコなどの旅を背景にして書かれている。今と比べて旅するということがまだまだ大変だった時代に、家を離れ友人を思ったり、まだ英語圏にはあまり紹介されていなかった仏教的世界観に思いをはせたり、広大な自然に打たれたり。呟きにも似た詩を通して伝わってくるのは、交通手段も各種のメディアも発達していない世界で言葉を発することのいとおしさのようなものだ。ほとんどの人々が生まれた土地に縛りつけられたように暮らし、不況や大戦の影響からやっと抜け出して豊かさへとゆっくりと歩き始めた時代に、見方によってはただただ淋しいだけの旅先の風景のなかで、詩を書く、詩を口にする、そのことがもたらす孤独なやさしさとでも言うべき感覚にこの詩集は充たされているようだ。

ケルアックの詩について。これはオン・ザ・ロードについても言えるような感じ。

ケルアックがヒッピーに影響を与えたという話にはなるほどと思いつつ、カウンターカルチャーが盛り上がった時期と言われている1960年代中ごろ(ベトナム戦争は1964年に北爆開始、ケルアック自身は1969年に死去)と本自体が出版された1957年という微妙なタイムラグが気になってしまう。インターネット脳かもしれない。

それと、10月号のBRUTUSで偶然紹介されて知ったのだけど、ケルアックの発掘には、カポーティの伝記等を残しているノンフィクションライターのジョージ・プリンプトンが関わっている。この記事にはケルアックの発掘がいつごろだったかは記載されていないが、プリンプトンがザ・パリス・レビューというケルアックの作品を掲載した雑誌を相関したのは1953年とのことなので、「地下街の人々」近辺以降の作品が載ったようだ。

というわけでやっぱり時系列が気になって色々調べてしまった。ジョージ・プリンプトンという人は交流範囲が広くて、その事を調べ出していたらイーディ・ゼジウィックの本等も青山南が出していたりと細かい副産物があった。終わり。