ジャック・ケルアックの「オン・ザ・ロード」(青山南訳)を読んだ。長かった。

  • まず物として重たい本だった。持ち運びがしづらいため休日にまったりと読むことになった。そのため大分時間がかかってしまった。
  • サル・パラダイスの一人称は「私」でも良かったと思う。「ぼく」はダメじゃないけれど、2009年(この本は2007年に出ていて買ったのは2008年年末なんだけど)現在で、「ぼく」という一人称を使うと、いきなり別のイメージがまとわりついてくるので、逆に、ディーンと対比させる意味でも「私」が良かったんじゃないかな。
  • 第5部まであったけど、読み終わって第1部を読み返すとほぼ忘れている事に気づく。というわけで細かい事は覚えていない。
  • 面白かった。とはいえ、感想を気後れさせるくらい、フィジカルな小説だよなぁ。ともかくこの小説が凄いのは、二人のアメリカ青年がアメリカ大陸をルートを変えながら2回も往復し最後はメキシコに行ってしまったという事だ。それ以上どうこうって、僕には言えません。
  • とは言っても、既存のオーディオビジュアル環境に毒されている自分としては、中々読むのには難儀した。確かに人と背景を描写するあたりについては、それがサルの寸評と混じる形で面白いなーと思いつつ、ただただ描写と立体感を生んでいくためだけに数行が費やされるのは、やっぱり読み疲れる。このへん、映像メディアにイメージをたくせなかった昔の作品だよなぁと率直に思った。ポール・オースターとかだとこのへんもう少し敷居が低くなったりするけど、映像メディアが浸透してきて以降の作家は確実に独白が多くなるのはまた別の障害を発生させ(以下略
  • もう少し通時的に考えてみる。1947年から1950年前半という時代は、世界大戦とベトナム戦争という二つの戦争の狭間の時代だった。この作品についても、戦争の終了と戦後の空白におけるアメリカ青年の意識変容の書としても読め無くは無い。
  • 例えば序盤、サルは周囲のインテリに対してより余程ディーンに完全な知識を感じていたりする。サルは自身作家でありながら、ディーンのような身体的な人間に対して強い憧憬がある。それ、彼がジャズやドライブをディーンと共に楽しんでいる点にも現れている。秩序立てられた健康では無く、「壊れる」くらいに身体的であろうとすること。ケルアックがディーン(ニール・キャサディ)に見出していたのはそのスタイルかと思われる。ビートニクと呼ばれる世代の作家全体でこうしたムードを共有しているのかは分からないのだけれど、少なくともオン・ザ・ロードにはそうした生の横溢が描かれている。個人的に興味があるのは、こうした空白で生まれたディーン・モリアーティ=ニール・キャサディ的なもの(=過剰なまでの身体性、ジャズやドライブ)がどのように変容していったか…?という事だ。時代的に見るなら、その後アメリカは経済的な成功を収める一方で冷戦とベトナムを経験するのだが。物語の最後では、実際サル(ケルアック)がすっきりしない別れ方をディーン(キャサディ)としてしまう。ケルアックは特に感傷を付け加えてはいないのだが、どことはなしにディーン、ひいてはその背後にあった色々なものがすっかり失われていったというような余韻が、ケルアックの「ディーン・モリアーティを思い出す」という大事な事なので2度言った!的な繰り返しによって、与えられている。つまり、既にケルアックはそうしたものがやがては消え去るんだという認識に1957年時点では既に経っていたのでは無いかという。いやそれは妄想が過ぎるか。
  • 最後になったけど、この池澤夏樹編集のシリーズはカバーのデザインが凝っていて良いです。でも次はトマス・ピンチョンのヴァインランドまではタイトル的にひっかかるものがないかな…。あと値段が高いです。

とまあとりとめもなく。