「あとがき」について

この前知人とライトノベルを漁っていたのだがその時「結局新刊のライトノベルを選ぶ基準」って店頭においては「イラスト」と「あとがき」くらいしか無い、と言う話になった。当たりはずれがあろうとも好きな作家なら、「それも含めて好きな作家」だから良いのかもしれないけど、全然知らない作家だとそうもいかない。情報収集する時は、ネット雑誌問わず所謂はずさないブックレビュアーを知っていればそれが一応の基準にはなる。が、アマゾンのヘビーユーザーならいざ知らず本屋に行くことそれ自体を目的にしている自分としては、確かに、手にとって、それがどんな本かなと基準にする時、上の二つくらいしか無いのが現状だ。まぁそういう人自体が今は減っていると思われるが。そこで思い出したのは過日読んだ、小谷野敦バカのための読書術 (ちくま新書)で、そこでこんな話があった。

私はカナダにいたころ、伊藤整の『氾濫』というなかなか面白い長編小説を新潮文庫で読んでいて、読み終わって「解説」を読んでいたら、会ったばかりのカナダ人が「何を読んでいるんだ」と訊くので、「イントロダクションを読んでいる」と答えたら、「確かずっとその小説を読んでいたようだが、何で読み終わってからイントロダクションを読むんだ」と笑われた。そう、イントロダクションというのは、本の前に付くものだ。(中略)なお、文庫版というのは、エンターテイメントを含む文学作品が圧倒的なシェアを占めているが、その解説には、どうも、ひどいのが多い。

ちなにみ、イントロダクションとは他人による解説であって、日本における著者自身によるあとがきはアフターワードと言うらしい。さて、知人との会話に戻ると、「読む前にあとがきを読む」というのは良くあることだという。そう言われてみれば、最近の文庫版解説またはあとがきはライトノベルであろうとなかろうと、あとがきから読み始める読者を見越してネタバレ注意とか書いてあるモノもある。一例は挙げれば、いづれも文庫版だが、阿部和重インディヴィジュアル・プロジェクションの解説を担当している東浩紀も未読の読者は読み飛ばしていただきたい、と断りがあったし、福田和也の乃木阪血風録にもあとがきにとっととレジにもって行け云々と書いてあった。先にあとがきや解説を読むのが、一般的なのかどうかは分からないけが、そうする読者がいることくらいは、売文業の中の人は知っているだろう。というわけで、ライトノベルや文庫版には作品の「前」にイントロダクションをおいてモライタイなどと、思う。帯のセールストークではなくその文章にお金を払わせる事が出来るようなイントロダクションを、是非。