プレーンソング (中公文庫)

プレーンソング (中公文庫)

池袋リブロで平積みだったので手にとってみた(ミナサン、リブロは良い本屋さんですよ)。いつもならあらすじをまとめるんだけど、この本にそんなものは無いですねぇ。そもそも人に「ここがツボ」っていうポイントが何か無くて。一応、ストーリーめいたものはあるけど…。初めて保坂和志の作品を読んだんで良く分かりませんなぁ。
あらすじみたいなもの
彼女にふられてしまったせいで一人で住むことになった家に住む事になった主人公。中々自分に馴染まないネコ、勝手に転がりこんでくる居候、競馬仲間など変わった人が周囲にいながらも何もおきない日常と、人と人とのとりとめのない会話が形作る一つの共同体についてのお話。
感想
現代小説のレッスン (講談社現代新書)石川忠司が書いているように、この作品は現代の若者(つっても15年も前の若者だけど)のどうでも良い日常に「ついて」描いた作品ではない。そもそも便宜的に主人公は「ぼく」ということになっているけど、これもたまたまフラットな視点がここにあっただけというような投げやりな設定でしかない。あけすけに言ってしまうとポスト村上春樹なわけだが、春樹よりももっと希薄な「ぼく」がいたりする。

猫たちが寄ってきすぎて鉢合わせしてしまってこの部屋の前で喧嘩をはじめたらどうしようかなんてことも考えかけたのだけれど、そういう想像は別に心配でもなんでもなくてむしろ考えて楽しむことの部類に属するもので、考えがそういうことに流れはじめているともうそれからは取りとめのないものになっている。(P.54から、強調は僕です。)

意味だけは分かるけど、因果みたいなものはここからは読めない。これがこの作品の特徴だと思う。主人公が自宅の近所に現れる猫にえさでおびき寄せて自分になつかせようということも、写真家のアキラが自宅に転がり込んで来ることも、ぜーんぶその事自体は「取りとめのないことになってしまう」。じゃあ何が「取りとめのないこと」じゃないのか(以下読んでない人は見ない方が良いかも)…。
それは、小説で言えばゴンタのカメラの焦点が変って話と繋がると思う。普通の映画だとしゃべっている人が中心になるけど、それだと聞く人が何してるかわからないという話。あれはつまり誰かが喋ってるかどうかよりも人と人との触れ合いみたいなものに重心を置いているってことだ。あとは海に行ったときに耳が聞こえない犬を連れた人に会った時の主人公の反応。

「それはもう事実性からどうこういう話なのではなくて、話す側と聞く側の意思だけで意味とかあるいは意味に近い何かを与えていく話で、ぼくはそういう話がすごく好きなのだ」(p.233より引用)

なんだというここ。この一文が作家の小説そのものへのマニフェストになっているんだと思いました。別に主人公がいなくても、話の筋がなくても、それよりも別の楽しいことがあるじゃないか、というね、要はそういう「話」。

面白いかと言われるとどうかなー。何か作家の宣言を読んだような気がするんで。あと、上に引用した因果不明の会話とかズラズラっ並ぶとタルイ。ああいうスタイルで物語を書いた事自体は凄いなあーって正直に感動なんですけど、その凄さが伝わりづらいというか。あとやっぱり時代を感じる。バブルの残響というか。物語が成立しづらい時代だったのかもしれないけど、その分小説の対象=現実はゆるかったと。で、今逆じゃん。そのぬるさがどうにも。結論としては村上春樹につけるクスリといった用途が正しかろうと思う。
関連リンク
保坂和志とbungate-webの共同制作によるHP
作者ご本人のホームページ。小説やエッセイが読める。