先日「永遠のフローズンチョコレート」の感想を例によってぐだぐだとアップしましたが、その際に見つけたある書評に違和感を感じたので少し話をすすめてみたいと思います。自分に確認させる目的もあるので…まぁ読みたい方(いるのか?)だけどぞ。
まず、僕はあの小説が好きにはなれませんでした。主人公3人の態度が嫌だし、主人公が何だかんだ女の子にモテているのが気にくわないし、カラカラに渇いた世界感も嫌でした。「人生なんて召使にでも任せておくさ」みたいな態度…例えばずっとキャラクターにとって耐えていける高踏的な姿勢でありポリシーなら結構だと思う。

しかし、小説内のキャラクターはどうもそうでもない。街角で出会った人間はいきなり殺すのに(それ自体は小説的にどうでも良いけど)、彼氏が電話に出なければ嫉妬する女子高生も、無味乾燥なふりをして女の子を気にする男も、この世界はいづらいんだとか言う不死身の少女も、誰も彼も結局半径3メートル以内の事については実に敏感なんですね。そしてそれがごくごく自然な空気であるかの如く数行も費やされず書き綴られている。

この…人を殺す事への屈託の無さと、周囲への異様な程の試着の落差が、僕には全然自然ではない。ですがそれが他の人にとってもそうであるかは分からないから「べき」とは言いません。ただ僕の趣味性においてもっとその落差を埋めるような描き方があったのではないかと思うだけです。作品については以上です。

さて、今回ひっかかりを憶えたのはこれ。

限界小説書評

しかし、それでも作品は生まれてきて、そして世に送り出されてしまった。先ほどから、本作においては、呈示される救済の処方箋が、先取りされて否定される構造になっていることを繰り返し述べているが、それはこの書評と本作の間の関係にもあてはまる。本作が今私の手元に存在し、ここで得体のしれない書評が書かれているというような繋がりの事実性だけを根拠に、何かが生まれてくる「場」を肯定することは可能であり、この書評を肯定的に閉じる理路はそれしか許されていないように私には思える。しかしそのような肯定の回路は、本作を読みかえすことで即座に相対化されてしまう。繋ぎとめることの残酷さも本作には十分に描かれているのだから。 それでも繋がってしまう、繋ごうとしてしまう私たちとは一体なんなのか。そのような問いの地点に留まり、どうようの問いへと読者を巻きこんでいくような作品をこそ私は「傑作」と呼びたい。そして、その意味で、本作は紛うことなき傑作である。

僕の反応とは逆にこの評論では結論部分において、本作が「傑作」であるとしている。僕はこれに惹かれた。まずは評論全体を確認しておく。

永遠のフローズンチョコレート』/Sweet Dreams(are made of ××××)という評論は、において評者の前田久氏は作品についてこう記している。「近年の『萌え』評論ブームを逆手にとった作品たちにあるような、しなやかで強靭な軽やかさは存在」せず、本作が「『透明な存在』と名乗った少年の『透明』さに通じてしまうような、不可避な脆弱さから来る諦念と哀感が満ち溢れている」と。これは僕にも分かる…というかそういう諦念なり哀感を描きたかった意図は僕にも汲み取れる。だが続く文章はどうだろう。

いうなれば、ここにあるのは「私たちが自然に使える言葉の道具立てはこれしかないのだ」という透明な絶望の宣言……いや、むしろ「宣言」などという声高な形をとれない、弱い「呟き」なのだ。 かつては、「ミステリ」や「SF」、はたまた「伝奇」や「純文学」などなどの個別のジャンル小説の形式へと沈潜し、そのジャンル内の歴史を意識的に参照すること――わかりやすくいえば、なんらか形で権威を確立した「ジャンル小説」作家の末席に身を置くこと――によって、この種の方法論的な貧しさからくる絶望から解放されることができた。しかしながら、歴史を参照しようとしても、書き手においても読み手においても十全には参照しきることができないため、同じジャンルへの帰属意識を持つ者同士であっても共通の知識の基盤を持つことが極めて困難になっている、批評家・福嶋亮大の言葉を借りれば「ジャンル内の記憶を「見えない他者」として利用し、そこから資源を吸い出すやり方が機能しなくなってきた」(「コンラッドの末裔たち1900/2000」)状況にある現代に産み落とされた者が、そのような「解放」を望んだところで不十分なものとして終わらざるを得ないことは言うまでもない。つまり、無知なものも絶望するが、無知から解き放たれようとするものはより深い絶望の中に叩き落されるのである

「『透明な存在』と名乗った少年の不可避な脆弱さから来る諦念」は、評者によれば作家の「方法論的貧しさ」からの「解放」が「不十分なものとして」終わってしまうことへの「深い絶望」に接続されるのだという。このあたりからどうもよく分からなくなる。この話の筋に従うならば、「透明な存在と名乗った少年」(二重鍵カッコが面倒なのでこう表記しますが)の「不可避な脆弱さから来る諦念」は作家の苦悩と密接に結びついているのだ。次を読んでみよう。

この「呟き」に繋がっていく、かつて批評家・ライターの佐藤心が「現代ファンタジー」と名指して言祝ごうとした想像力の枠組みは、佐藤自身の批評活動からの事実上の撤退に象徴されるように、その受け皿として強く機能していた電撃文庫ジャンル小説――『灼眼のシャナ』に代表される伝奇路線や、『リリアとトレイズ』に代表されるライトファンタジー路線など――中心のラインナップへの大幅な転換、そこから取りこぼされた主要作家とその読者たちの、ハヤカワ文庫や講談社ノベルスといった既存の権威を持ったジャンル小説レーベルによる不十分な「ジャンル作家」としての回収(上遠野浩平の「ミステリ作家」「SF作家」としての評価と〈ブギーポップ〉シリーズの作者としての評価の遊離に留意せよ)、さらには、もうひとつの強力な受け皿であった「美少女ゲーム」の急速な保守反動(「キャラ萌え」至上主義、家族愛の称揚、演出強化によるアニメーションへの接近とそれにともなった戦闘パートの比重の高まり、細分化され先鋭化したフェティッシュ描写)などによってほとんど息の根を止められた状態にある。

次の段落においては何故か透明な存在と作家の関連性に関する言及を回避したまま、批評家佐藤心氏の「想像力の枠組み」がライトノベル業界の方向転換によってご破算になってしまったことを解説している。これは評者自身が後段によって解説するようにジャンルの「浸透と拡散」という現象に過ぎないわけだが、こういった話と、本作の評価がどう繋がるのかこの段から不明瞭になっていく。

あるシステムの中には、システムに対する反発も必要な要素として記述されている、という酷薄な真理がここでも機能した、というだけのことにすぎない。 トートロジー的になるが、そのような視点も先取りされているからこそ、本作の作者も、またそれを評する私もことさらに力強く「宣言」という形で何かを訴えられない(そもそも、本作の後書きを信用するならば、この作品は出版が予定されない、発表を前提としないままに書き上げられている)。仮にここで「現代ファンタジー論壇」をぶち上げ、「現代ファンタジー大賞」などを作り、「現代ファンタジー完全読本」だのなんだのを作ったところで、そんなものは即座に相対化されてどうにもならない。だからあくまで「呟き」を漏らすだけなのである。

相対化されない作品などないのだから、「現代ファンタジー論壇」や「現代ファンタジー大賞」をつくり、それをもって自らの支持者を獲得すること自体は何ら問題は無い。つまり、僕と評者の違いはここで明らかになる。「相対化されてしまうこと」自体が僕と評者の違い、ということだろう。

言語で画定された瞬間の意識ではなく、変化も含めた瞬間の総体としての不可知な「気分」だけがある。この部分は素朴な身体性の称揚、すなわち実存主義的な描写ともとれないことはないのだが、そう捉えて「言語/気分」という二項対立の形で現れているその感覚の構造を脱構築してみたところで大した意味はない。ここにあるのは、そうしたイデオロギー闘争的なレイヤーとは違う、物語化を一切許さない端的な事実性の総体として世界を捉える目線である。 ここで重要なのは、このような俯瞰的な視線が十全に可能なのは、この独白をする少女が、不老不死の肉体――物理的にも精神的にもけして恒常的な傷を負うことがない=変化することがないという点において、事実として事実性の束と一体化することが可能であるがゆえであるという点だ。

「物語化を一切許さない端的な事実性の総体として世界を捉える目線」が、また、「少女」が「不老不死である=変化することがない」ということは「事実として事実性の束と一体化することが可能である」ことが本作においては重要なのだと、評者は言う。ここまで読んで僕は、これはどこの東浩紀だろうと思ってしまう。「物語化を一切許さない端的な事実性の総体として世界を捉える目線」を持つ主要人物達にとって、「日常の要素」として人を殺す事と海とチョコレートがどの程度重きをなすのか。また作中どういった意味を付与されてきたのか(「意味などなく気分」と言われればそれまでです)。

しかし結局のところ私たちは不老不死の肉体を持てない。同じような認識に到ったとしても、ある種の身体性――腹が減ったら食事をとり、性欲が高まればセックスをし、恋人や家族の振る舞いに一喜一憂しましてや生活が左右されるような――を持っているならば、言語で画定されたものは全部偽物だと考えながら、適度にその偽物を使いこなして、世の中とうまく折り合いをつけて関わって生きていく他に選択肢はない。作中で理保がそう振る舞っているように。「再帰的に選択された共同性」や「物語の復権」といった類いの社会政策的な処方箋が語られるのもそのような感覚を背景にしているのだろう。

再帰的に選択された共同性」「物語の復権」は、恐らく上の段で評者が述べている「主要作家とその読者たちの、ハヤカワ文庫や講談社ノベルスといった既存の権威を持ったジャンル小説レーベルによる不十分な「ジャンル作家」としての回収」や「『美少女ゲーム』の急速な保守反動(「キャラ萌え」至上主義、家族愛の称揚、演出強化によるアニメーションへの接近とそれにともなった戦闘パートの比重の高まり、細分化され先鋭化したフェティッシュ描写)」という事例と恐らく対応している。

ここで評者が言わんとしていることを咀嚼するなら、現代においては「物語化を一切許さない端的な事実性の総体として世界を捉える目線」が退潮し、私達は言語で画定された「偽物」の「共同性」や「物語」によってやり過ごしていると言える。その現状認識は、ある意味正しい。

全体を通してみるならこの評論は「永遠のフローズンチョコレート」が如何に「歴史的に正しい」かを証明するという目的には応えているかもしれない。

しかしながら僕には評者である前田氏が多分に社会学とその周辺の議論とライトノベルの動向を重ね合わせている事に、かなり違和感がある。恐らく前島氏は社会学者である宮台真司氏の「あえてする」近代に対して距離をとる東浩紀鈴木謙介に深い理解があるのだろう。しかし、そうした政治性をライトノベルというジャンルに持ち込み、「社会学的正しさ」なり「思想的厳密性」を計ったとして、それは果たして作品の質の担保になりえるだろうか。だろうか、と言っている時点で僕にはそれほど確証などありはしないので、これは一つの違和感に過ぎないわけだが。

また、本作「永遠のフローズンチョコレート」が端的に優れていたとして、それが単に繋がりの場として機能し、また読者を新たな問いへと導くものである、という点にあるとするならば、それが積極的に本作である必要はどこにもない。僕を含めた多くの読者が作品によって繋がりを持てるとするならば、それはこのはてなや広い意味でのインターネットによってなのであるのだし、繋がりという点に注目するならもっと言及されている、またされるであろう作品を参照すれば良いのではないのだろうか。。評者なりの小説に関する良し悪しがあったとして、それを提示することなく評を閉じてしまう事は、評者も本作と同様のトートロジーに足を取られているのではないか。評者が本作の気分に深い感銘を受けたとしても、それが本作以外にも当てはまるような評であるなら、それはどの作品でも良い、ということになり趣味性の問題に回収されてしまう。もっと言うならば僕としては評者の趣味性が如何に魅力的か、それを是非みてみたかった。それが如何に方法論的貧しさにまみれていても、相対化されてしまうとしても、そこからしか論を立ち上げられないのは誰にとっても同じことであると思う。今回の書評は批評家の問題と作家の問題と読者のそれが、混同されてしまっているように感じた。



関連

小学館::ガガガ文庫:ガガガトーク: 東浩紀 - イシイジロウ(1)