記憶の掘り起こし3―話題は結局ループするんだな

selim・またはぬるいジロリアンの日記 ―ガンダムW(ウィングだよワロスじゃないよ
selim・またはぬるいジロリアンの日記 記憶の掘り起こし2

上みたいな話を続けてましたが、「90年代前半がエヴァによってかき消されてるのかなぁ」という僕の疑問に関してはかなり深い議論が既に展開されていました。しかも少なくない人がブックマークしてますね。アンテナ低いなぁ自分。今回は長いです。

エヴァ前夜(1986〜1994)はアニメ史的空白だったか?

80年代生まれはエヴァの前にSDガンダムを経験しています(笑)。
投稿者: 倉井あどき  投稿日: 3月 6日(日)13時14分38秒

(中略)

 思い入れ込みの非常に個人的な見解を述べさせてもらえば、私はその時期が「歴史上の空白期」だったとは思っていません。80年代のリアルロボットブームは、表現の拡大という意味で非常に大きな成果をもたらしたと思いますが、同時に「子供離れ」という子供向け作品から出発したアニメにとっては根源的な危機をも招いてしまった訳です。

(中略)

で、そういった流れに待ったをかけたのが85年から出てくる「ダンクーガ」「ダンガイオー」「飛影」「マシンロボ」「ゼオライマー」そして「ボーグマン」といった一連のロボットものの王道回帰を目指した(でもオタクっぽい)作品群で、その路線を(オタクっぽさを含めて)推し進めた結果登場したのが「魔神英雄伝ワタル」から始まるコミカルロボット作品達だった訳です。
 で、私がこの時期を「空白期」ではないと主張する理由はまさにこの (正確にはロボットもの以外のコメディ作品も含めた) 作品群にこそあるのです。もっと具体的な話をすると「ドラゴンボール」や「セーラームーン」に加え、この作品群を代表する五大タイトル、「ワタル」「ラムネ」「勇者シリーズ」「エルドランシリーズ」そしてなによりも「SDガンダムシリーズ」にアニメ史的・オタク史的価値を認めるか否かというのがこの時期が空白期なのかどうかのたぶん分水嶺になるのだと思うのですが、私はそれを認めている訳です。

(中略)

 そして諸先輩方がこの期間を空白としたがる、というか意識の外に追い遣りたがる理由もまた、ここにあるのだと私は考えています。
なぜならこれらの作品の方向性はそれまでの80年代リアルロボットアニメとはある意味で相容れないものだからです。
いや「デフォルメキャラがコメディやるならともかく真面目な話をするなんて気持ち悪い。邪道だ!」と主張されてる方をネットで何人かお見かけしただけで言ってるので偏見入ってるとは思いますが。
 でも実際、そうやって「SDガンダム外伝 聖騎兵物語」とか「ラムネ&40」とか「アイアンリーガー」を見て、俺達が夢見たアニメの未来像はこんなものじゃない!と憤り、しばらくアニメから離れていたら、突如 (では本当は無いのだけれど) 「エヴァ」が出てきて「なんじゃこりゃぁ!」となった人って意外に多いんじゃないかと思ってるんですけどどうなんですかね?

「ワタル」「ラムネ」「勇者シリーズ」とかって確かにロボットが2等身だったり、スーパーロボット的であったりと今考えると子供向けになっていた気がする。勇者警察ジェイデッカーとその前のマイトガインはロボットが言葉を喋るしなぁ。あとロボット=乗り物という感覚が個人的には少し薄かったと思います。

わーい
投稿者: 秋水  投稿日: 3月 7日(月)01時14分48秒

(中略)

私個人も、80年代末から95年までの期間が空白期として黙殺されてきたことには本心では違和を感じていたので、倉井さんと基本的に考えてることは同じです。

リアルロボットブームとその斜陽、更にそこからの子供向けへの回帰は倉井さんの指摘どおりだと思います。
つい最近までというかある年代のオタクの間では「80年代のリアルロボット至上主義が夢見たアニメこそが望まれるアニメの正しい姿である」という声が大きく、90年前後においても、「アニメは子供のもの」という世間一般の偏見に対して反論する為に、子供向けと揶揄されないだけの「格」が作品に必要だったため、その言説は、ある程度正統性をもっていたためにそれに対する異論は、なかなか口に出して言えない雰囲気というのがあったというか、自分が呪縛されていたというか。

「80年代のリアルロボット至上主義が夢見たアニメこそが望まれるアニメの正しい姿である」というのは、色々個人差あると思うけど今でもそういう人がいるから実感としては分かる(笑)。この発言でなるほどなと思ったのは、どっちかというと僕の趣味はかなり子供っぽいということですね。

上の世代は理解しようとしたけど、下は・・・  
投稿者: 秋水  投稿日: 3月 8日(火)02時33分58秒

(中略)

それとエヴァがVやセラムンの上にあるという認識は当時10代や20前後のオタクの間でも実際はあまり認識されていなかったことだったと思います。
それはサブカル文化人のエヴァ評にかき消され取り込まれてしまったという側面もあると思いますが、90年以降のアニメ業界(要するに70年代生まれ以降のアニメファンによる市場)の状況というのはすでに「萌え」という言葉が使われ始め、キャラ人気に支えられていたという側面があり、エヴァの視聴者も、セーラームーンを見ている感覚の延長でエヴァのキャラに萌えることを目的にして見ていた視聴者も多く含んでいて、それに加えて、声優やキャラデザイナーには詳しくてもそれ以外のスタッフ構成には興味も知識もないファンというのも珍しくはなかった。
60年代生まれには割とあたり前のスキルだったスタッフ構成やアニメ史を元に作品を理解するという視聴スタイルが、70年代生まれ以降には、そのスキルが一部の人間を除いてほとんど継承されてこなかったという状況があったりします。
(この辺はアニメージュの80年代と90年代の紙面構成の差が如実に物語っています)

セーラームーンを見ている感覚の延長でエヴァのキャラに萌えることを目的にして見ていた視聴者も多く含んでいて」、「声優やキャラデザイナーには詳しくてもそれ以外のスタッフ構成には興味も知識もないファンというのも珍しくはなかった」というのは、きっちりオレにも当てはまる話で耳が痛い。

救援求む。私はもうそろそろ限界です(汗)。[前編]
投稿者: 倉井あどき  投稿日: 3月 9日(水)03時45分24秒

(中略)

1.86年〜95年の後天的空白化
 まあこれは要するに、当時喜んで見てた人はそれなりに居たけれど今現在それを語る人が少ない、という事なのですが、もっと正確に言うと個別の作品の好き嫌いレベルの話はそれなりに見かけるんですよ。

見かける。

2.「エヴァ」の系譜問題
 既に「エヴァ」の直径のルーツとしては「Vガンダム」と「セーラームーン」が挙げられている訳ですが、庵野監督自身が語っている通り、これらの作品は当時の他作品とは明らかに一線を画した作品でした。
 
(中略)

 「Vガンダム」の場合は、単体で考えるよりも前作「F91」を含めて考えると面白いものが見えてきます。
「F91」が本来TVシリーズとして企画され、それが二転三転して劇場公開されたというのは、オタクの間では有名な話ですが、なぜそうなったのでしょうか?
「F91」が公開されたのは91年。勇者シリーズが二年目に入り、エルドランシリーズが始まった年です。でも、ガンダムにおいては、実はこれらよりも遥かに重大な事情があります。それはSDガンダムブームが絶頂期であったという事。これでは子供人気が望める筈もなく、また一方、「F91」は今までのシリーズと違い「富野節」を極力抑えた作りになっていた為、コアなファンの受けもあまり良くないという板挟みにあってしまう訳です。

えーそんな話があったんですか。全然知らなかったYO!確かにあのころSD絶頂で、ナイトガンダム初代の映画版もつくられていたのは憶えている。

続き
投稿者: 秋水  投稿日: 3月 9日(水)21時00分25秒

(中略)

結局のところVガンダムエヴァが目指したのは、そういう状況に対して、80年代の中盤で途絶えてしまったリアルロボットの復興である一方で、それは同時に作り手としての「作家性」というオリジナルの希求だったんじゃないかと思います。

70年代前半生まれの人間も、リアルタイムで90年代前半の作品を楽しみつつも、80年代のリアルロボットを知っているが故に、その時代に対する懐古や羨望もあって、続編やリメイクではないオリジナリティもテーマ性もある大人向けのアニメの登場を心待ちにしていたのではないかと思います。

(中略)

どんなに子供向けとして良質であっても、それを見て評価する側のオタクが、本当の意味で欲していたアニメの答えは「エヴァ」だったということなのではないでしょうか。

それゆえに90年代前半を代表するといっていい子供向けのロボットアニメ、少女アニメのほとんどが、当時ある程度人気がありながら現在省みられないのは、個々の作品にそれぞれ魅力があっても、そこに批評的価値のある突出した「作家」が不在であり事実、後々まで語り継がれるほどのインパクトを与えられなかったからなのではないかと思います。

「作家性」が希薄だった。

オマケ的な話
投稿者: matture  投稿日: 3月10日(木)10時50分32秒

オマケの中のオマケ
90年代前半という時代は佐藤順一の時代だったのではないかと思う。つまり「シンデレラ・フォウ」だという事。シンデレラ・フォウは「アレンジ至上主義」であり「萌え」であり「ロボット物の中でのドラマ」なわけです。アニメ業界では一人の人間が流れを作るという事は往々にあり、佐藤順一という人物は宮崎・富野、といった方々と異なり『あくまでも「作品」が主で、「クリエイターとしての自分」は従』であるが、そこに90年代前半があるのではないかと思う。

「クリエイターとしての自分は従」。でもこれは難しくて、制作サイドがそういう意識でも、見る側はそういう態度に「職人気質な作家性」を読んでしまうかもしれないしなぁ(何か揚げ足取りだけど)。それとも90年代前半はそういう空気が支配的だったのだろうか。または「作家性」を衒学的に読み込むのは当時既に局部的な行為だったとか。

あとはまったりと
投稿者: 秋水  投稿日: 3月11日(金)02時01分31秒

(中略)

80年代前半で新しいことをやり尽くしてしまって以降のアニメが、時期的に引用やパロディに走らざるを得なくなってしまっただけなような気がします。そしてそれは、オリジナリティの欠如の無自覚でしかなかったんではないでしょうか。
あえて意図的に自覚的にそれを成したのはガイナックスであり庵野監督の「トップをねらえ!」であり「ナディア」であって、それが出てきたことで、以降、データベース引用、アレンジが手法として確立されていったのではないかと思います。

これは倉井あどきさんの

次に「アレンジ至上主義への傾倒」ですが、いきなり新しい単語が出てきたので驚いたと思いますが、これは要するに、当時私が感じていた「『自分の言葉』で語るのはダサくて恥ずかしいけど、『他人の言葉』を『引用』して、言いたい事(特に愛とか友情とか根性と言ったキレイゴト)を表そうとするのはかっこいい」というような空気というか雰囲気を一言で表したものです。

という80年代から90年代前半のアニメに関する発言に対する秋水さんのレスですね。うーむ、これってやっぱり世代によるのかなぁ。僕もおどっちかと言えば倉井さんに片をもってしまうんだけど。

それに対しての倉井さんのレス。

う〜ん、仰りたい事は分かりますし、そういう一面もあったとは思うのですが、では、例えばあかほりさとるさん辺りは本当に「無自覚」だったのでしょうか?私にはどうもそうは思えないのですが。

ここであかほりさとるの名が!

私も訂正
投稿者: 秋水  投稿日: 3月11日(金)23時48分14秒

(中略)

確かに、あかほりさとるは「無自覚」ではなかったですね。

(中略)

あかほり関連ですと「キャッ党忍伝てやんでえ」「ラムネ&40」なんかがそうですね。そう考えると「無自覚」というより「無邪気」と言ったほうが適切かもしれません。
無邪気なパロディの乱発によるオリジナリティの欠如といったところでしょうか。

続いてこんなレス。

虚像に振り回された男。
投稿者: 倉井あどき  投稿日: 3月13日(日)18時55分38秒

(中略)

といいつつ余談ですけど、あの時期をオタク史的に空白と言うか「黒歴史」にしたがる人が多い理由の一つに、彼の存在があったのかも、と今回の反応を見てちょっと思ったり。

それに対する秋水さんのレス。

確かに黒歴史かも
投稿者: 秋水  投稿日: 3月14日(月)00時05分53秒

その可能性はゼロではないと思います。
当時の彼の作品のファンが現在それをどうおもっているか当事者に聞いてみないとなんともいえませんが、人によっては、「古傷」「若気の至り」として抹消したい過去になっていて口を閉ざしてしまっているのかも。

ラムネまでは好き!とか色々線引きが必要なのかも知れませんね。セイバーマリオネットJまで!とか。あかほりさとるはどっちかというとオールラウンダーな人だったから、「たくさんあるうちの一つ」というのが個人の実感。でもそれが色んなところで積み重ねって凄い数になっていた・・・というのが真相ではなかろうか。

とりあえずまとめ終了。

疲れた。長いっすよ!出来たらこれらの証言を下敷きにして、個人史的に続きをかけたら良いかなと思います。なお、今回は、僕の疑問であった「何で90年代前半のアニメが顧みられる事が少ないのか?」という問いに焦点を絞ってかなり強引に編集し直しました。それ意外にもかなり興味深い話がなされているので、僕に対するツッコミ目的にせよ何にせよ一読してみて欲しいと思います。

その他情報収集して思ったこと


肝心の「ガンダムW」については、やっぱり上の話にもある通り個別論としては結構みつかるわけですが、中々同世代に特化した語りというのは見つかりませんでした。当然ですが。あとは…ブクマでカノセさんから「ガンダムWパソコン通信は叩かれていた」というツッコミをキャッチしたわけですが、パソ通時代にガンダムWがどう評価されていたかはちょっと分かりませんでした。あとシロクマさんのコメント「当事者性」というのは参考になったような。

ついでに2ちゃんねるのログを覗いてみたのですが、Wが批判される場合というのはガンダムSEEDから遡ってというパターンが多かったです。腐女子向けガンダムのルーツとなった作品だとかそんなかんじで。その一方で戦争物として一応形を成していることと、ガンダムがバラバラで戦うという新しいシチュエーションに肯定的ポイントを与えた人もいました。まぁ作品論はどうしても個人の思いが強くでちゃうのであんまり掘り下げずに、自分なりの感想を後でまとめられれば良いと思いました。

何にしてもこのログ自体、http://d.hatena.ne.jp/kanose/20050222#otakuhisここが起点になっているあたり、結局似たような感じ方をする人は多いんだなぁということと、話題ってループしやすいんだなと。

何かラノベサイトとしての本分(?)を忘れていますが、多分続き書きます。とりあえずおしまい。