順列都市

順列都市〈下〉 (ハヤカワ文庫SF)

順列都市〈下〉 (ハヤカワ文庫SF)

selim・またはぬるいジロリアンの日記 - 順列都市
昨日の続き。今日も微妙にネタバレします。主にセル・オートマトンと本書に出てくる塵理論について若干補足などを。

なんだか各所で同作者のディアスポラが難解難解言われているので少し怯えていたのですが、以前ライフゲーム - Wikipediaを読んだのと、GtkLifeを弄ったのとでセル・オートマトンについてのイメージが存在していたおかげで大体は理解して読めたように思います。物語の鍵の塵理論が出てくる辺りは結構辛かったですが。ニューラルネットワークのシミュレーションによって自意識が生まれるところまでは良い(ような気がする)として、その演算の順序なんて替えたら駄目なんじゃ、そもそも直前の結果を使わない演算に意味はあるのか、てな感じで。
while(1)って恐くね? - 初イーガンに順列都市読んだ

と言うわけでセル・オートマトンについて、閉鎖するらしいWikipediaをぎりぎりまで利用しつくしてみた。まずはセル・オートマトンについて。

セル・オートマトン(Cellular automaton、CA) とは、格子状のセルと単純な規則からなる、計算モデルである。非常に単純化されたモデルであるが、生命現象、結晶の成長、乱流といった複雑な自然現象を模した、驚くほどに豊かな結果を与えてくれる。
セル・オートマトン - Wikipedia

意味が分からない。ではライフ・ゲームではどうだろう。

ライフゲーム(Conway's Game of Life)は1970年にイギリスの数学者ジョン・ホートン・コンウェイ (John Horton Conway) によって考案された生命の誕生、進化、淘汰などのプロセスを再現したシミュレーションゲームである。
ライフゲーム - Wikipedia

なるほど。微妙に理解。

ライフゲームは"0人ゲーム"である。通常のゲームではプレイヤーの操作でその後の状態が変化していくが、ライフゲームでは初期状態のみでその後の状態が決定されるからである。

(中略)

セルの生死は次のルールに従う。基本的な考えは「過疎状態でも過密状態でも生き残ることはできない」というものである。

誕生: 死んでいるセルの周囲に3つの生きているセルがあれば次の世代では生きる(誕生する)。
維持: 生きているセルの周囲に2つか3つの生きているセルがあれば次の世代でも生き残る。
死亡: 上以外の場合には次の世代では死ぬ。
(引用元同じ)

ようやく理解。どうやら方眼紙の上に黒と白のマス目を配置し、いつまでその状態が続くかを楽しむゲームなのね。上巻でマリアがセル・オートマトンを仕事そっちのっけで没入するシーンがあって(ただし引用元画像のようなシンプルな2次元モデルでは無いようだ、まだ良く分かって無い)、「何でそんな分子がどうこうののモデルに金を払ってまで夢中になるんだ…」と奇異に感じたのだけど、アメリカでは一時期流行したらしいので、恐らく英米圏の読者には自然な描写だったのかな。

ジョン・フォン・ノイマンについても調べてみる。

ノイマンセル・オートマトンの分野を自ら創出し、(当時はろくにコンピュータも無かったにもかかわらず)実に方眼紙とペンだけで、自己増殖の事例を構築してみせた。ユニバーサル・コンストラクタの概念は、ノイマンの死後、「自己増殖オートマトンの理論」Theory of Self Reproducing Automataとして肉付けされることになった。
ジョン・フォン・ノイマン - Wikipedia

wikipediaを鵜呑みにし過ぎだとは思うけど大体こんなところ。最後に塵理論について上記ブログから辿るとこうです。

現実世界自体が膨大な計算そのものだとして(これは、機械論的宇宙論の行きつく先ですね)、その一瞬一瞬の計算過程を、上の一枚の紙に例えると、その計算各過程を、時間的空間的配置から解き放して、バサッと広げると、それは、別の世界の計算過程を表現していることにもなります。
 時間的空間的配置から解き放つのが不自然であると考えられるかもしれませんが、この宇宙の因果、この宇宙の時空構造自体が、計算の繋がりによって初めて規定されているのだと仮定すれば、この宇宙自体が、バサッと広げた計算過程の山を、ある特定の計算ルールによって順序良く積み上げた一具体例でしかないとも考えられます。そして、他の計算ルールによって順序良く積み上げれば別の宇宙を表している……
 これがおそらくイーガンのいう「塵理論」でしょう。

2001年2月中旬その1

なるほど理解。これは分かり易い。でもだとするとセル・オートマトン塵理論という二つの構造が並列しているのは何故?(いや実際は並立不可能になるのがこの小説のキモなのだが)という疑問にぶち当たるが。いや、一時的に均衡しているように見えただけか。

以下雑然と。以前からイーガンを読む際には「用語の厳密性<文脈における意味」という不等式を自己洗脳的に繰り替えてしていたのだが、どうもそれは無理筋だなというのが今回はっきりした。特に本作ではセル・オートマトン塵理論が物語の根幹を成してもいるし、それが何かわけわからん理論だけどなんとなく重要なのねという程度だとどうも意味を掴み損ねているような、いやていうかその程度の理解で済むなら映画マトリックスの設定+脳医学で説明は大体終了してしまうし(リアル/電脳世界というおなじみの二層構造)。

ならびに「ジョン・フォン・ノイマン」なる人物が実在の人間であるか、そうでないか判断出来なかった時点でやっぱり文系的自己洗脳で乗り切るにはちょっと限界があったように思える。フィクションに出てくる人名が連想出来なかったからといって何の問題があるのという話だけど、それを押し通した時に何が起きるかと言えば、実はフィクション自体の力を弱めるというか自ら弱めてしまっているのではと思ったり。それはつまり、言葉そのものの衰弱というか、事実存在した人もあっさりフィクショナルな人物として受け流してしまう事で生じる違和感とでも言えば良いのか。うーん上手く言えない。

とりあえず理系じゃなければ読む意味が無いとは思わないけど素養はあったほうがやっぱり良いねというお話でした。