サブカルチャーハラスメント

オタクはメディアによって差別されている!非モテラブハラスメントにさらされている!これは間違っている!世界を革命する力を!

まぁそれは良いとして。若者が印象論で語られるのは、メディア産業に従事していてかつ、声が大きい人の中に若い人が少ないせいだろう。またはモテな人が多いせいだろう。これは例えばテレビ業界も企業体であることを考えると致し方ない。入社したての若者がいきなり会社の方向性を左右することは、今でもそう多くは無い事を考えれば分かる。

当面、私たちは差別やレッテルに耐えるしかない。直接的、身体的な暴力が無いだけマシだなと思う程度で満足するしかない。そしてもしかすると、このまま耐えてもあまり良い事は無いのかもしれない。いずれ時が経ち、私たちに近い世代がメディア産業の中核に座ったとしても彼らが下の世代だけでなく同世代に対しても抑圧的でないという保証はあまりない。せめて多チャンネル化が進行して、一つのメディアの影響力が相対的に減っていくと良いな。

さて、モノとしてのオタクカルチャーの浸透と、マイノリティを認める感性の浸透は別ものである。最近こんな記事があった。

この世代に、ガンダムファンは、本当に多い。びっくりするほど多い。
さらに、根っからのファン以外に、彼氏やダンナの影響で急激に詳しくなっている友人(女)も多く、結果、自分だけが「うわ、こんなことも知らないの?」といった白い目で見られる。
「ガンダム好きに共通する論調」に迫る | エキサイトニュース

以前からガンダムを熱っぽく語る人には一種の違和感を抱き続けていたが、こういう事はどうやらオタクの外も中も関係なく起きているらしいことが分かった。

ガンダムの世界観自体は、一つのアニメとしてかなり好きな方だと思う。だが、自分が「熱烈な愛好者」に対して引く瞬間というのもまた存在している。以前に時代検証的にこういうのを書いた事があった。

ガンダムでは「機動戦士Vガンダム」「機動武道伝Gガンダム」「新機動戦記ガンダムW」「機動新世紀ガンダムX」などVを除いて富野ガンダム空白期であり、ガンオタにとっては冬の時代であると言えよう。
selim・またはぬるいジロリアンの日記 - 記憶の掘り起こし5―83年生まれのロボット観及びアニメ観

私たちはリアルタイムで富野ガンダムなど見ていないかまたは低調な時期にアニメを視聴していた。にも関わらず同世代がファースト良いねと言う時に私は多少引き気味になる。それは単に私が90年代とリアルタイムという事実を特権化しているだけであるが、それがまず一点。

次には上の記事のように一般的にライトとされる層が熱っぽくガンダムを語りだす時に私は引いてしまう。即物的な反応としては「それって常々君がキモイって言ってるオタクカルチャーだよ」というものだ。もう少し落ち着くと、以上2点をまとめて以下のような感想を持つ。

一つ目。今後はサブカルチャーによるハラスメントが行われる可能性がある。それは現在的に見るとテレビコードに乗れないことによる周囲との齟齬のような現象を思い浮かべてもらえれば良い。またはカラオケで女性ボーカルのアニソンしか分からず全く歌えないなどの現象もそれと似ている。そうしたテレビコード/カラオケコードと並列してサブカルコード(アニメやマンガを主には指している)が生まれるのではないだろうか。

二つ目はそうした一部のサブカルチャーに何故作品論的な意味合いから遊離した位置づけが与えられるのか?ということについて。

まずヘビーなサブカルチャーユーザー(オタクと呼称される人々)側からすると、世代間や人々の趣味属性を超えた共通言語の必要性が生じたためだと個人的には思う。細分化は現在でも進行しているが、それはますます共通言語を失わせるために逆説的な共通言語の必要性を呼び込んでいる。人はいやでもコミュニケーションしなくては生きていけない。それが、多少ではあっても社会から遊離した趣味に耽溺しているのならなおさらである。私もそうした側面から決して逃れられない。

そうした中で、ベタでかつ意味の流通しやすいガンダム(でもジョジョの奇妙な冒険北斗の拳でも良いが)という記号はもはや作品論から遊離した一種のキー概念として私たちヘビーユーザーに認知され始めている。ガンダムはもはやロボットアニメの系譜として参照されてはいない。そうしたキー概念の一つである。また作品論を交わす対象としては機能せず、如何ににその膨大な世界観を知悉するかどうかがコミュニケーションの円滑さを規定するのではないだろうか。

またヘビーユーザーとライトユーザーの邂逅を支える機能を、そうしたキー概念の集合体は負うことになるだろう。それはある面でポジティブある。コミュニケーションの円滑化や、文化圏の横断を支える一つの柱をそうしたサブカルチャーが背負ってくれるなら、私たちヘビーユーザーも幾分かのやりやすさを感じながら世間に出て行けるかも知れない。

だが、そうしたライト/ヘビーユーザー双方の動きが生じさせるのは、上記のようなサブカルチャーのハラスメントという個人間のミクロな段階に加えて、そうしたキー概念が一種の政治的な機能を担うというマクロな局面での可能性である。例えばガンダムが歴史の教科書に記載されるかもしれないし、音楽の教科書に「残酷な天使のテーゼ」が楽譜付きで載るかも知れない。妄想だろうか。だが来日した当時にあれだけ大人達に(という言葉が昔はあった)嫌悪され、若者に熱狂を受けたビートルズが現在では音楽の教科書には載っている。これは、ビートルズの音楽的価値が今や失われ純粋に世代を超えた共通語としての機能を負わされているとは言えはしないか。

そうして、そのコードから抜けてしまう人はやりづらさを感じずにはいられない。恐らくそこにヘビー/ライトの境界線は存在しない。あるのは、趣味に対する態度の問題だろう。まぁどうでもいいか。