昨日アニオタ族の人と動ポモ2について話した時に、お互い喧々諤々罵声を浴びせあったのだが、何かいっつも論争の焦点に上るポイントとして「社会の全体性」云々かんぬんという話があり。

僕が語る意味での社会の全体性とは「大きな物語の消滅/大文字の物語の消滅」という東浩紀大澤真幸らの立論に準拠しているに過ぎないので、要は見取り図として便利だよね、という話だったのだけどアニオタ族の人にとっては大きな物語の消滅そのものがイメージできないらしく、見取り図としても不適当だという感想だった。

今考えてみると、アニメを含む広義のサブカルチャーのハードユーザーにとっては文化は常に細胞分裂を繰り返しているのだから、大きな物語がかつて存在した、という仮説自体に疑いを持つのはまぁ当然と言うか。だけど、そこであっさり流せない僕は如何に60年代から70年代に日本社会が均質的な環境であったかを滔々と語り、その論拠をいちいち挙げ辛い挙句の果てに斜め読み程度のメディア論の話まで持ち出してマジレスしてた。新宿の某コーヒー店。我ながらうぜー。

社会の全体性をイメージ出来た時代とかにあっさりうっかりいっちゃうけども、今は文化の細胞分裂が当然なのだから全体性を想像する方が確かに困難だよなー。それにオレはそういうでかい見取り図ラブなのでツールとしてのそれに飛びつきがちだけどゼロベースでそれを説明せよっつったらキツイし難儀なのだ。

アニオタ族の人の意見としてこんなの。

  • 何でポストモダン化の指標として学生運動の挫折やマルクス主義の崩壊を持ち出すの?それはインテリの挫折という局部じゃない?
  • その時代に大きな物語に大量動員された人がいた一方で全然別のベクトルに動因された人がいたんではないの?
  • バブルは大きな物語ではないの?オレ達はバブルのころ子供だったけどみんなやってる事同じように見えたけど?
  • 仮説としては面白いけど、大きな物語が実感出来ない。
  • どうして大きな物語が有効だった時代の話はベクトルが同じで、今は違うの?結局経済的な問題以上にどう均質だったのかわかんない。

色々話したけど、僕自身もあんまり納得出来ない説明をした。均質的で同ベクトルであったことを、メディア/経済/社会の構造から裏づけたとして。それでも相手が均質的では無かった事を証明するのに、同じ土台に乗る必要性も極限的な意味ではあんまり無いかな、とは思う。だって均質的な環境に人間がおかれれば大体同じ考えをするだろう、つーのは一種のアルゴリズム的な思想でしかないしなー、いやもちろん社会科学系はそれをベースに考えてはいるんですがね。そうした前提がなければ、議論の進まないし、実は社会の制度設計なんてものも出来るはずがないんですよ。

恐らくアニオタ族の人が一番いらだつのは(僕も好きではないけど)、そういう枠組みから導きだされる冷たい人間観なのだろうなとかは思いました。とりあえず僕がここにたって感じている色んな感情を押し殺すことからそうした議論の前提は成り立ってますからね。良い悪いに関わらず。

まとまらないけど終わりです。