以前小谷野敦さんが「『子供という概念は近代になって発見された』とかいう人に限ってろくに歴史年号を覚えて無い」というような文章を書いていて良く覚えている。

そういうまぜっかえしな物言いは楽しい反面、目的を喪失している。僕もそういうのは大好きなのでこの間ちょっと使ったら「だから?」という顔をある人にされてしまった。例えばある問題があったとして、それを解決するために分析手法を変えるのはありなのだが(上のようなヤツ)、手法が自己目的化した瞬間に何かが終わってしまう。自分の意図に基づいて議論出来ないオレカコワルイ。

逆に、議論を進める中で局部的事実を挙げる切り口もダメだとか思う。そういう人もある種のポストモダン病に罹っていて、つまり個別ファクトが万事になってしまっていて、そういう時僕は「だから?」という表情をとらざるを得ない。その場合にも大抵目的は無くなっているし、立論という最低限の手続きすら出来てない。そういうのもダルイ。

こういうのが、ブログに特有な自意識の問題なら社会的に大したことでも無いけど、最近は実生活でも上のような場面に直面するので最近は肩がこるなという。日本のポストモダン化は深刻過ぎる。

なんで、最近はファクトの蓄積、分析、再構築を意識的にやろうとするのだけどあんまり上手くないんだよな。理路整然と話そうとしても、今度は相手に話を聴いて貰う時の雰囲気とか話方とかメタメッセージが重要な要素として浮上してきてしまって。ああまた肩こるな。空気なんて読みたくないんですけど。

最後に。一番泥沼な考え方は、統合的な理屈なりを自分の中に設定することかなぁとも思う。いや、本当は設定したいのだけど。それが一番幸福なので。ただ自己啓発スレスレ過ぎてムリなのです。テレルのです。そういう人を見ると羨ましい反面、バカにしているのも事実。性格悪いなぁ。今、一番良い対処方法は、場面ごとに人格を切り替えるとかモードを切り替えるとかだけど、そういうのを俗に世の中では空気を読むと言っている訳で、そして僕はそれが苦手なわけで。

何か抜け道無いかねぇ。