冷血 (新潮文庫)

冷血 (新潮文庫)

http://d.hatena.ne.jp/solar/20051002#p1

アメリカの1950年代では、二人はもうとっくに「青春」とは呼べない年齢だったろうが、いまの私たちは、『冷血』を十分に、青春小説として読むことができると思う。

というのを読んでから2年も経って今さら読んだ。とっくに青春は過ぎたというのに色んなモノを拗らせた(誤読)というセンテンスに惹かれた。あと本当は村上春樹が好きなんだなろうなぁsolarさんは。

読むに当たって特別な目的が無かったので読むのが時間がかかってしまった。練習問題は答えから先に見るように、後書きから読む癖があるので、そこを参照すると「家族」というのがキーらしいので家族家族…というのを意識的に読むが、ダメ。

実際にアメリカで起きた一家4人殺しから犯人の死刑執行を、小説形式(なのかまたは報告書の体裁を採った物語)にまとめた本と言えば事足りてしまうのは、この本の魅力が題材そのものではなく、その語り口、つまりスタイルにあるからだ。

とは言え、仲俣さんの言うように前後の文脈(1950年代〜1960年代のアメリカ)を持っているわけでは無いし持つ気もあまり無いし(このスタイルがどう文学またはジャーナリズムを変えたかという問題や、アメリカという国の変遷がどーしたというのは、なので、この際却下してしまおう)、立つ寄る辺があるとすれば「青春小説」二人の主人公、ペリーとディックになるわけだけど、どこまでもだらしなさを追求したい人間としては、ペリーよりディックを選んでみたい。

というのもディックが真性の救い難さを備えているからで、コレはまず僕の琴線に触れた。例えば、彼の死に際のセリフ。

「死刑ってのは復讐することに尽きるが、復讐の何が悪い?とても重要なことだ。

(中略)

連中は望むことが手に入らないんで頭にきてるんだ―復讐がな。だからってむこうの思い通りにはさせないぞ。おれは絞首刑をよしとしてるんだ。ただ、吊られるのが、このおれでない限りは」

本書を読んだ限りだとカポーティは自分の意見を差し挟むのを嫌う傾向があり、自分を前に出そうとはしない。だが一方で皮肉を好み、そういう要素を収集するのに余念が無い。物語が後半にさしかかると、片方の主人公であるペリーに対しては罪と向き合う機会が与えられるが(実際にそうだったのだが)、対象的にディックはますます下らない役割を振られることになる(いや、恐らく最後までこういう人だったんだろう)。

ペリーもディックもひとしなみに終わっているが、どちらかと言えばその後の恵まれなさはディックが勝っている。ペリーが親友に手紙を書く傍らで彼は再審の余地を探しに「リベラル」な人々に手紙を送りつけていたり…と。

勿論カポーティは宗教に対してもシニックで、ペリーはキリスト教に救われているわけでは無いけど、ドン・カリヴァンの登場は死に臨む彼に対して一点の光を添えている。だが、そうした形而上に向かうことなく、最後の悪あがきをみっともなくあがくディックの方には、一つの滑稽さだけがあるわけで、どうもその可笑しさに僕は惹かれてしまう。

青春小説として読んだ時に言えるのはそんなとこかな…。つまらないですかそうですか。

あとは皮肉な事実の相関を並べ立てる作者のニヤニヤとした笑いがちらっと頭を掠めることしばしばであった。作家というのは業の深い生き物だな、本当に。

余談になるけど、こういうエサ(実際の事件)をテーマにした時に作家が示す態度は、ある種の良し悪しがはっきりしてて良い。あまりに惨たらしい事件を前にして、顔が真面目になる人と、損得勘定丸出しになる人いるけど、今までの経験上で言えば後者の方が良いモノを世に送る傾向がある。そういうのは文章にも滲み出てて、前者はどっかで怒りが渦巻いてる感触だけど、後者は斜に構えつつ、という。