今週末は家で読書とネット、少しドライブした程度。完全に一人。楽だ。しかし、換気扇が壊れているのと天候が悪いので気分がすぐれない。仕方ないので体調と気圧の関係について調べたが

湿度が上がることによって血液などの体液が粘着質の状態となります。そのために身体内の代謝機能がうまく働かなくなります!血液はさらさらしているときの方がスムースに末端細胞まで血液を運べます。なにせ身体の末端の毛細血管は太さが0.5mmもないものですから粘性が出てきてしまうと行渡りにくくなるのです。
http://bodywise.hp.infoseek.co.jp/hhpp/kiatu.htm

ということしか分からなかった。解決策は無いらしい。タバコを吸うので余計かも知れない。ともあれ、こういう気候だと読書する気も失せてくるので映画を昨日今日で2本見た。一本目は県庁の星で、テレビをつけたらやっていたので見た。織田裕二柴咲コウという取り合わせだった。つくりとしてどうのこうのは分からないままだったが、寝る暇は無かった。

男性に都合が良い、という切り口は飽きられているのかも知れないが、いまだに僕にはへんな固定観念があって、そういう描写に出会うとうぉこれは都合が良いぜ渡辺淳一!という反応をとってしまう。それはとりあえず一時期斎藤美奈子教に入信していたせいにするとしても、困った癖には違いないのであって、果たして県庁の星を見ながら結局そういうところを粗探しするはめになった。

気になったのは織田が出向先のスーパーでの不祥事をマスコミに暴露され⇒県庁の巨大プロジェクトから外され⇒自暴自棄になっているところに柴咲コウからスーパーの再建を提案される一連の流れだ。

別に織田裕二が社長の娘に結婚を破棄された後に柴咲コウと結ばれたわけでも何でも無いが、やっぱり僕は彼女が一つの起点になってるのが気に入らなかったらしい。

先の都合良すぎセンサーにひっかけるならば僕は安易な救済表現が苦手である。そしてその救済を告げるモノが自分に(または登場人物)とって余りに都合が良い時、実に居心地が悪いなぁと思ってしまう。それが実写でベタにやられているとなおさらだ。正直、こんな感覚はありふれていて、恐らくある程度物語中毒患者なら誰しもが考える。つまりあまりに現実的でないそんな他人の思いやりをわざわざ実写でありそうに描くのは何だか見ていてツライ、という手前勝手な感情なわけだ。でも良く考えればオタ系コンテンツはそういう描写であふれているのに、そこまで違和感を覚えないのは何故か。ただのひがみなのかもしれない。

ともあれ織田裕二は公務員が似合うなぁというのが確認できたのは収穫だ。欲を言えば柴咲コウじゃなくて深津エリが良かった。

その後夜にツタヤに行って、スコセッシのグッドフェローズを借りて見た。タクシードライバー非モテの経典なので、非モテギャングスターとなったロバート・デ・ニーロが世の中のモテを一掃するカタルシスを得られるのではないかという期待。そんなわけないよな。

結論。主人公は駆け上がりやがて落ちてゆく。長いし、眠いぜ。ただこの映画の方が県庁の星よりは親近感があるのは確かで、要するにどこまでもだらしないこの人間模様が今の気分にはフィットしている。そしてだらしないからと言って突き放さないまなざしが良かった気がする。一生懸命自分を追い込んで仲間を増やして金をゲットして女性に気を遣って人まで殺して、最後には長年連れ添った仲間を権力に売って、それでも残るのはトマトケチャップだけ。こういうのを主人公の自意識だけを拠り所にガリガリ描かれた日には余程暗鬱な映画になると思うが、それを上に書いたような安易な救済方法に拠らずに、軽いノリで撮ってあったのが気に入る。

何か、この人の作品はどれもトーンが同じで、答えは宙吊りが好き。無常観。クズをクズらしく描くには人後に落ちないこの監督だが、クズに序列を付けないのはエライな、とか。

そんなでまとまりないけど以上。