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フリッカー式 <鏡公彦にうってつけの殺人 > (講談社文庫)
- 作者: 佐藤友哉
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2007/03/15
- メディア: 文庫
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勝手にに括るなら一番暴力的で元気溢れる舞上王太郎が長男、次男がお喋りな西尾維新で最後に来るのが鬱病で死にそうな佐藤友哉かなという。ダメですか。
正直最後の方がグダグダでそれも含めて残念感が漂うけど、それだけでなく無性にイライラするのででググル先生に神託を請う。
読んで感じたのは嫌悪感だった。話として面白くない訳ではないし、僕ら世代的なコネタがちりばめられていることを考えれば気に入ってもよいはずだと思う。しかしそうはならなかった。これが意外だった。
なんでこんなに胸くそ悪いんだろうと考えた。考えた結果思い至ったのは、小説でコネタとして扱われているものが、僕にとっては小説より大事だからだ、ということだった。
http://d.hatena.ne.jp/hsksyusk/20060404/1144164991
ネタの扱いにイライラする人。サブカル族としての自覚に希薄なせいかピンとこず。それに加えてユヤタン的表現がオタ系コンテンツに溢れ過ぎているせいでいまやただの背景という認識しかない。
昔、佐藤友哉さんの「フリッカー式」がメフィストに投稿されたとき、編集者による匿名選考会で太田克史さんがなんでこの人は僕がこんなに大事に思っているものをこんなふうに無造作にポンッとひっぱってきちゃうんだ!と怒りをぶちまけたのだけれど、「じゃあ読まなきゃいいじゃん」という話ではない。それでも読んでしまうのだし、高く評価せざるを得ない。太田さんはそんな自分を肯定されましたが、私は忸怩たる思いを拭えない。
http://deztec.jp/design/06/03/07_book.html
似たところで釣られている太田編集長。どこが引っかかったのだろうか?エヴァの引用とか?
自分の話。僕も上の人達と同じくイライラというか鬱々とさせられたのだけど、それは割合シンプルでこの作家は、人が大事そうに抱えているものを力づくでぶち壊しにかかるからである。そういう意味で上の人達と似ているのかも知れない。そのやり方は何だか稚拙で、ところどころ破綻しているのだろうけど、妹を○○○された怒りから行動する兄⇒実は一番最低なポジションの兄までの筆致は中々良かった。鬱で。ますます残酷な行動に走り出す彼を支えていたのは、愛する妹の恨みを晴らすという一点に絞られていくのだが、その中途意味を喪失していき、最後に「そんなのお前の願望に過ぎないのですよ」という引導を渡すのは、反教養主義的とでもいうか、悩み傷つき自己成長する変わりに傷つき悩み消滅してしまうという、切なさが漂う筋書き。
余談だけど、こういうファウスト系の客観的な評価ってなんとも下しにくいといつも思う。舞上も佐藤も一応ミステリとして括られているけど、形式的に考えてありえないオチがついていてとてもそんな風に呼べるものではない。
そうした時に批評の遡上に上るのはサブカルチャー小道具なわけで、要は「オタはデータベースを参照しながらサブカルチャーを貪ってますね」という話。飽きたよ。飽きついでに言うと、マクロすぎて望遠鏡で金星の表面の穴を見てるような他人事感がある。それは読書する楽しみを削いでいる気がするのだ。それと対極を成すのが、究極の自分語りスタイルで、これは作者=主人公=読者という三位一体方式。どっちかというと、後者の方が良さそうだけど、偉大な先達がこの方法を採用して死に体を晒してるのをみるともうちょいやり方があるような気がする。余談終了。
結論としては、必死な作品だなと思った。