シガテラ(1) (ヤンマガKCスペシャル)

シガテラ(1) (ヤンマガKCスペシャル)

チャーリー鈴木謙介氏の本に取り上げられていたので読んだ。ふつう。ていうか今手元にWeb社会の思想が無いので、彼の参照理由が思い出せない。それに、何か今ひとつぬるぬるした印象がまとわりついて離れないのは何故だろう。面白いけど、面白くない。それはワンエピソード単位で読むならそれなりにうだうだと悩んだり決めたりする主人公が描かれるのに対して、ピースを繋ぎ合わせた時に見えてくる形が歪過ぎだからだろと思う。だんだん分かってくるのは、何か彼が決めてる時やアクションしてる時、実はそれは大したキモでもなんでもなくてただの行動履歴みたいなものだからだ。南雲さんも谷脇も高井も最終的に何か別の誰かになっていって、自分はよく分からないけど今こうでだから僕はこう決めましたよっていう変な自己暗示だけがあって。

ではここで一番のキモとは?それは実は自分と無関係な、だが良く分からない流れみたいなものだ。それは例えば、バイクの教習場であったり学校であったり南雲さんの部屋であったり最終的には彼が勤めている会社で起こる何がしかであって、荻野は「そこにいること」に対して驚く程淡白である。そうした妙な動機付けを徹底的に排除して、絶えずちゅうぶらりんな状態にストーリーを維持しきったのは、何かすげーなとオモタ。でもラストで荻野がふと感慨にふけるシーンは、果たしてハッピーエンド前にふさわしいのか。このシーンはこの作品にしては珍しく大分しつこいシーンである。色々あった荻野が最終的には自分の人生を肯定しちゃうという。こんなうるささは、この作品全体に置いてみるとかなり際立っている。しかも、何がしかの決定を経ることなく、何かに流されてなんとなくそう言わせてしまうのって酷くないかい、と思った。

余談。こういうゆるーい結論に連れて行くのに6巻も必要だったのかな。