最近の考え事。

世代

この前新宿の紀伊国屋でブラブラしていて、ふと以前池袋ジュンク堂大塚英志監修の新現実を必死で探してるおじさんを思い出した。アレ過ぎるフラッシュバックが頭を過ぎった理由は、僕の目の前で絶対可憐チルドレンをすごーくうしろめたそうに小学生や中学生に混じって眺めている年上の人を見かけたからだ。リアルだ。リアル過ぎる。そろそろああいった姿が他人事ではなくなりつつあるので、どうしようかな…といつも思う。そもそも本屋にマンガ買いに行くの止めれば良いのだけど、忙しいと結局アマゾン確認するのすら億劫で、結局近場で済ませてしまう。あとだんだん若い人がまぶしくなってきて、普通のコミック売り場から足が遠ざかってきた。特に制服姿の中高生がまぶしすぎて、本当に申し訳無い気持ちになる。この前もバッカーノ!を中学生と並んで立ち読みしてたら、何を言われたわけでもないのにとても哀しく、また申し訳なくなった。多分それは一緒に並んでいた中学生の未来がかすめて見えた事(あまり明るく無い未来が)、もう一点は彼(男の子だった)がなぞるかも知れ無い無残な姿をさらしているという理由においてだろう。いやどうだろう。

その点サブカル系書棚だと年齢的に近そうな人がたむろってるので以外と都市型工学迷彩が発動しやすい。まぁ別にそこでコミュニケーションとるとかはないよ。小汚くても若くてオタクだったころはガンガンアレな方面を発掘していたけど、小汚くて年食ったオタクだとそうはいかなくて、だから萌え系とかテイクしづらい。

イリュージョン

SFを読むのが世界に幻想を付与する作業だとすれば「いわゆる」小説を読むのは人間性に幻想を付与する作業だと言えそうだ。休日にグラン・ヴァカンスを読んでいてそんなキがした。いきなりツッコミどころ満載の断定で失礼。何かイリュージョンでは幻想とイコールじゃないけど語感が良いのでそのままで。

かといって人生は小説では無いので、脳内で無用に拡張された人間性を実生活に当てはめようとしたら地獄だろう。最近よくやるのは物語から吸い出した人間の類型を目の前の関係者に当てはめていることだ。フィクション上に存在するキャラクターは限られた状況で限られた判断をしているいるに過ぎない(ように描かれている)が(状況を例えば戦争等のようにリミットギリギリにすればするほど、キャラクターは良くも悪くも活きる)、現実には間延びした状況のなかで何となく物事を決定したりしなかったりする。だから、フィクションから得られた真実性は現実に試される事でボロボロとメッキを剥がされてゆく。フィクションは、もとあった場所にもどされてゆく。何でそんな当然の事にきづかなかったのだろう。そして、何故かドラマ中毒者は現実に近似したフィクションを求めて放浪する。

フィクションに骨の髄から毒されたドラマ中毒者は(まるで他人事だが第一に自分のこと)日々をフィクションに準えているので、客観性を放棄する。いや、ドラマ中毒者に言わせれば真の客観性は、フィクションの真実性(凄い矛盾だ…)によって培われているから、現実生活一般から得られた経験などゴミ屑同然だ。ネタではなく時々そう考える。

ドラマ中毒者が現実をフィクションのように生きるにはどうしたら良いのか?さらに言えば、小説的な私であったりあなたであったり彼であり彼女を現実のどこに求め、自分の経験値を無駄にしないためにはどうした良いか(最後が一番重要だろう)。短絡的に考えれば勝手に状況を創りだすよう試みる事だ。方法は何でも良い。上手く行けば、自分好みの役を演じる事が可能だ。が、上手くいかなければ
不本意な役を演じる事になるかもしれない。実に実に不本意な役かもしれないが。

そうした時人は再び岐路に立たされる(こうした状況に陥らせるという意味ではそれなりに長く生きていればどんな人にでも決断の時、というそれなりにドラマティックな瞬間は訪れるものだ…という気にもさせられるが)。あくまで現実のドラマ性=フィクションの真実性に縋るならば、人は端役に甘んじるという悔しさを噛みしめる…いやこういう表現そのもがドラマ中毒が如何にも選びそうな言葉遣いで、実際には端役も主役もいちいち自分の役割なんぞに自覚的なわけはないのだが、とにかく。

他方で現実のドラマ性=真実性の放棄を選択すれば、人生のロール及び意味は一気に霧散してゆく。その代わりに恐らく放棄した人は相当な安らぎを得られる。

なんとなく続ける予定。