年末整理その2とオタクとラノベ、読書について。

年末―オタク辞めますね

年末は飲み会が多かった。で、個人的に行っておいて良かったのはコスプレする人とかカラオケする人とかが来る飲み。何か私の周りには結構コスプレする人が多くてその人々はコミュニティ形成能力が高かったり社交性が高かったりと要はアレかリア充か。いいなぁ。羨ましくて羨ましくて首をしめてしまいたくなる。それはともかく人を動員出来る人達が多くてそういう人達と飲んだ。私としてはそもそもそういう方面に舵を切ろうという気持ちは一切無くてこれからも極力人とは会わない方向で良いと思っているのだけど。色々話が出たけど総合すると、彼らは体を使う人なんだよね。コスプレイベントがあれば睡眠時間削ってでもそこに行けるし、その次が月曜でも全然平気。普通に仕事に言ってしまえる体力がある。仕事や学校が上がった後すぐにコスプレ用の材料を漁りに行く。そしてあらゆる時間の合間を縫ってmixiを更新するしTwitterでケータイから電波を飛ばしまくるしノーパソを担いでも苦にならない。良いか悪いかはともかく足と目と頭を使っているのは良く理解出来た。で、私としては電脳コイルは正座して見ろ派、もとい教養型オタに属しているはずなので(教養そのものは無いにも関わらず教養的に振舞うオタ、という意味で。詳しくはげんしけんのハラグロ氏による斑目に対する評価を参照)、何かそれって薄いなぁみたいな感想を漏らしたけど、どうも彼らにはピンと来てないらしかった。あと何かコスプレにも派閥みたいなのがあってmixiではそこでのコミュニティの大きさとかなんだらかんだらを競っていたりもするらしい。田舎ヤンキーの抗争劇みたいな。まぁそこでの競い合いは電脳空間での自意識投射に過ぎないはずなので、実際に暴力が介在しないかぎりはどこかの陰口が吹き上がるとかで済みそうっちゃ済みそう。

で、ああすげーなと彼らの話を聞いていたのだが実際問題、歴史感覚とか嗜好の一貫性、または倫理的社会的政治的正しさなり審美眼にもとづいた現実に対する接し方に比べて、彼らの方が余程「やりやすそう」だというのは印象深い。まるでストックが無いので、後ろ髪を引かれることも無いし、社会との摩擦も少なそうだ。あとこういう人々のモデルの方が余程、欧米でのレイブやヒップホップムーブメントに近いというか、音楽と肉体が結びついた運動に近いようにも思えた。現状日本でシーン(現場)とかは無いというのが定説らしいが(東京限定ではいっぱいある)、間違い無くハレハレなんちゃらをコスプレしながら踊り狂うオタ達には音楽と肉体が結びついたシーンがあるよな…とかつい考えてるうちこいつらがオタの文化をリプレゼントしてるならオレはオタではないのではないか…と思い始め、つい「じゃあ僕はオタじゃなくてただの本マニアですね、オタク辞めますね」と口走っていた。まぁ他称オタクなのでいつまでもオタクかもしれないがその当たりはめんどいのでやめよう。

年末の話終わり。

ラノベと読書

さて去年は積極的に鬱系ラノベをテイクしていて恐らくその傾向は今年も継続すると思われる。昨年あたりから鬱ラノベに的を絞ったのはライトノベルに興味を引かれたというのもあるが、それ以上に「鬱展開」と呼ばれる作品群がオタク系作品の中で台頭してきたからに他ならない…と言ってる間に減ってきている気もするがともあれ。個人的にオモロイなぁと思うのは、基本的に脳内温度を高めるために機能していたはずのオタ系作品が何故読んでいてムナクソ悪い作品を供給し始め、かつそれを支持する層が現れ始めたのか?という点である。そもそもオタ系の作品に限らず都合の良いデイドリームを提供するのがフィクション特に娯楽系の機能であるとするなら、何かこれらが必要とされる根拠はどのあたりだったのかなぁというのが大きな興味として一つある。また、その副次的問題として、同世代やその下が考える「鬱」とはどういう程度の事象を指すのか?という点にも強い興味を覚えた。

昨年度は、それほど多くの作品に目を通したわけでもなく、またラノベそのものの魅力にも足をとられて―これは本当―寄り道だらけだった。まぁ今年は何とかやれれば良いかな…。

以上