「欲しい、という思いをキープするのは難しい」というようなセリフを昔ラブアンドポップという小説で村上龍が書いていたのを最近良く思い出す。2009年の現在、村上龍という作家は、結構残念なポジションに落ち着いてしまったと思っているが、今でも彼の文章自体の魅力は疑い無い。それは、何の裏づけも無しに発せられた言葉が、まるで事実であるかのような力を帯びていく、という一種の動物的なセンスだ。それは、しばしば本の出来と関係あったり無関係であったりする。関係ある場合には、その小説そのものが、一種の動物性、殺意、本能、色々なものを纏って、読み手である僕を煽る。その煽られた感覚を強く持つ時、僕はその作品をかなりの割合で好きになる。逆にその本能的に選択された言葉達が、バラバラな方向に顔を向けている時、作品や本はかなり破綻している。特に最近の作品や本は明らかにそうした傾向が強く、彼の強い動物性が、実は何かに飼いならされているという事に彼自身が気づいていないか、または、そう気づきつつやっているようで、実に口惜しい感じになる。でもそれも「作家」としてではなく、一個人として村上という人を捉えられれば、立派だし、未だに自分のテリトリーを確保していると言う点には尊敬をしている。シカゴブルズを辞めて野球に転向し、またみっともなくNBAに復帰したマイケル・ジョーダンを見るような…という分かりづらい例えだけど、そんな人として村上を捉える。

僕はそう思うくらいには村上龍が好きだし、同じ苗字でもどこかすました春樹よりはみっともなくても足掻いている龍の方にリアリティを感じる。それに龍と春樹は生きた時代は近くても生きる次元は全く違う作家なのだろう。

「欲しい、という思いをキープするのは難しい」という事を最近良く思い出すのは、多分理由があって多分僕がどこか「飼いならされている」からだろう。それは、インターネットに飼いならされているし雇用主に飼いならされているし社会学みたいなものに飼いならされているしiPodに飼いならされているし、その他もろもろに飼いならされている。

比較するのもおこがましいと言うのすらおこがましいが、昔、村上龍という恵まれた作家が辿ったルートが今、実に身近で、実につまらない形で自分の元やってきた。最近そう気づかされる事が本当に増えていく、本当に、加速度的に。