最近全然ライトノベルを読んでいません。理由は殆ど無くて今はラノベに飽きているから。でもきっとまた読みたくなります。今やっていることもきっといつか飽きるから。飽き、乗り換え、飽き、乗り換えというのをずっと繰り返しているので、定点観測的にワンジャンルにのめり込める人の集中力は凄いなぁと思います。

関係あるかどうかは分からないですが、僕が集中的にライトノベルを読もうとしていたころ一つのテーマだったのは「ラノベ的なものとは何か」という事です。それは、一時期ライトノベル定義論争とも呼ばれていたらしいのですが、僕の考えていた事とはあまり違いました。そこで語られていたのはライトノベルのパッケージ的定義であるとか、通時的なライトノベル理解であるとか(ここらへんからラノベ的なものが始まった、というようなオタク歴史考証学)、そういった点です。個人的には、知識も無いのでそのへんにはあまり乗れず、看過していました。

そういう一方、ラノベを家庭、親、恋人、学校、社会、等現実にある諸制度から理解しようとする考え方も生まれてきた記憶があります。セカイ系と呼ばれる作品群の理解には、そうした現実からのリフレクションとしてのラノベという遠近法は相当程度有効だったと考えます。が、その批評の深度はそもそもセカイ系という言葉の定義そのものが曖昧立ったこともあいまって、海の底を覗くような感じで、僕はこれにもあまり乗れませんでした。

僕がもっとも注目していたのは「表現技法としてのラノベの固有性」という観測ポイントでした。つまり純文学でも翻訳文学でもない、ラノベ的な固有性を、そこに表現される文章に求めていた、ということです。それは、今考えると、より苦しい道だったような気がします。というのも、ライトノベルにも翻訳されたSF文学のような作品もありますし、また、文学にもポップな文体を持つ作家がいます。ラノベを文字通り「語りたい」のであれば、しかもそれを特定のフレームワークに依拠しないで、そうしたいのであれば、ラノベ以外の知識をかなり分厚くしなければ比較出来ません。

そうしたわけで、殆どこの観測ポイントもかなり苦しい場所になりつつあって、そもそもそんなふうに読む必要無いという気もしています。

ただ、やはり思うのですが、僕は表現の固有性はその表現内部で見つけられた方が良いと勝手に考えているふしがあります。例えば、社会学や経済学のフレームワークを使ってラノベを語るのは有効な手段と言えると思いますが、社会学や経済学の言葉で語ることが可能な物語は、要するに特定の理論の元に再生産される物語の形を借りた論文としてラノベを語ろうとする事に他なりません。昔日本にはプロレタリアート文学というものがありましたが、それはマルクス主義の理論に従って現実をフレームアップした論文に過ぎませんでした。そこで生まれるのは、これは○○的であるから良し、これは○○的でないからダメ、という貧困な区別であるように僕には思えて成りませんし、それは、かなり残念な事でしょう、多分。

結構不思議なのは、こうしたラノベ的なる固有性を侵食していこうという外野の書き手とか批評家があまりいない(ゼロではない)、ということです。ただ、ここで言う固有性に最も近いのは、実はオタク的なサブカルチャーとは最も縁遠い、美学的な人々という事になるような気もしていて、それはそれで確かに難しいかと、やや諦めているところもあります。

また、セカイ系、という言葉についてもそれを一種美学的に語る人々もいるわけで、最終的にはセカイ系という言葉が既存の「学」に回収されない形で一つの価値観として形成されれば良いのかなと思ったりもします。