http://d.hatena.ne.jp/selim/20070403
前回の続き。

彼のようには読めないと言ったわりに面白いとこは面白かったので、そのあたりの洗い出し。

まずライトノベル定義論争終了。物語からの逸脱を常に試み、また行動様式や性格類型の可能性の束としてキャラクターの存在、それがラノベの強い特徴ということ。もちろんそれだけでラノベ論を完結することは出来ないが何故「これはラノベっぽいか、またそう感じるか」という点についてはここらへんがとっかかりになりそう。

それとラノベに自分を重ね合わせる旅も終了。オレ的には。つまりラノベそのものは「面白かった」「エロかった」「萌えた」以上ではありえない。オレ的には。主人公はオレではないし、そいつの行動や性格がどうであれ知らん。好きでないなら読まなければいい。このあたり話には希望が無い。無味乾燥な話すぎて分かりやすいけど悲しい。どうすれば良いのか。

セカイ系について。ライトノベルが用いる「半透明」な文体が可能にする、大状況と小状況の並存というやつ。色々と端折って説明するとラノベに描かれるキャラは人間でありながら記号的でもあるが故に荒唐無稽さとリアリズムを同時に手に入れたんだ、という話。あーそっかセカイ系のどことないハリボテ感覚ってそういう自由度を手に入れた代償だったのか、と思った。

キャラクターの共有財化とそのメタ物語性について。キャラクターでは行動様式と性格類型の束なのだから、物語から自立して勝手に1人歩きしてしまうという話。簡単に言えば、原作者が「このキャラクターはAという物語の登場人物なのです、それ以外では存在しようが無いです」と強調しても、我々は自由に二次創作できる環境を持っていますね、と言う話。ていうかもっと言えば、キャラクターが上のような二つの特徴を備えているのならば、それはそもそも共有化を前提とされたものなはずだし、それを一つの物語の縛り付ける方が不可能なんだろうね。

こんなところかな。ゲームの事はよくわからないのでキャラ概念に付いてぐるぐる回ったわけだが、色々得るものもありました。

ただ…というか読んで苦々しい思いがしたいのは、この評論集は僕が好きである、またはそうであった作品がもはや成立しないということを裏書しているというところで。以下妄想だけど例えばパトレイバーを今やろうとしても、個別のキャラクターに強い類型が備わっているわけではないし、ノアとアスマだけじゃあ話はとまっちゃうわで群像劇にはならなそうだし、というか今パトレイバーをかろうじてやろうとしたらギャクラクシーエンジェルとかになってしまうだろうしなーとか。まずウラでこっそりうまくやる上司やおっさんキャラって存立不能。共有財化しないから。プロダクションIGが好きな人だけなんだよおっさんが動いて嬉しい人なんて!

次。エヴァもそう。いくらストーリーでオタクを批判しても、キャラクターが行動様式と性格類型の束なら、いくらでも二次創作出来るし(ていうかストーリー内でも二次創作してるけど…)、綾波レイはオタクを否定すると同時にオタクの行動や戯れを肯定する両義的な存在なのだった…。そして誰だって自分を否定されるなんて好きになれるわけはなくて…とか。今誰もエヴァをやらないのは、そして創れないのは当然で、皮肉な事にエヴァ以降そうしたキャラクターの逸脱性はどんどん強化されてしまったからなのだった。

とかそんなこと考えて5日過ぎた。また今度。