自由はどこまで可能か=リバタリアニズム入門 (講談社現代新書)

自由はどこまで可能か=リバタリアニズム入門 (講談社現代新書)

やっと読み終わった、時間かかった。書影が旧ヴァージョンですが、今発売されているのは蛍光イエローに新しい講談社現代新書デザイン。

抜粋

  • 身体的所有権は、苦役を伴わない拘禁や監禁とも対立する。
  • 最大幸福のための臓器移植くじ
  • ある財の有償の売買の許可自体は、それを商品化するわけではなく、その商品化を可能にしているに過ぎない。
  • 自己所有権は自己奴隷化を容認するか?
  • リバタリアニズムが最小限にとどめようとしているのは、必然的に強制を含むことになる政府であって、市場以外の人間関係一般ではない。
  • リバタリアンは、権利侵害に至らないインフォーマルな社会制度があるからこそ、政府が強制的に介入しなくても社会の規律や秩序が保たれると考える傾向がある。
  • 通俗的には、「貧富の差」が大きいことは当然悪のように考えられがちである。(中略)かりにある社会の中で貧富の差が拡大するとしても、それが貧しい人々が一層貧しくなることによるものではなく、彼らが豊かになる程度が相対的に豊かになる人々が一層豊かになる程度よりも小さいことによるならば、その変化は改善である。

追記

面白かった。今様の一般論を学術的に推し進めればこんな感じになるのか、という皮肉はともかく。

リバタリアニズムとは何か。リバタリアニズムは、個人的自由(人格的自由)と経済的自由をともに尊重しようという思想である。リバタリアンによれば、前者と後者をどの程度重視するかで思想的分類が可能である。

  • 個人的自由(以下P):軽視 経済的自由(以下E):軽視⇒権威主義 
  • P:重視 E:軽視⇒リベラル
  • P:軽視 E:重視⇒保守主義

また、リバタリアンにも複数ヴァリエーションが存在する。経済的な側面で表現するなら、1.国家の廃止を主張する無政府資本主義2国が受け持つサービスを国防・裁判・治安維持等に限定する立場(夜警国家に近いイメージ)3は2に加えて供給の難しい財やサービス(福祉等を含む)を含む立場(古典的自由主義)という3種に分類出来る。

さらに、個人的自由とは(1)基本的な自由の権利に訴える立場(自然権論)、(2)自由を尊重する方が結果的に人々は幸せになるとする立場(帰結論)、(3)理性的な人々ならリバタリアンの原理に合意するとする立場(契約論)に分類出来る。

上記のような分類によるヴァリエーションから下記のような再分類を、実際の学者に当てはめる。

  • 3:ジャン・ナーヴソン

と、いうようにリバタリアンは分類が好きである、というより分類も含めてリバタリアンという思想が完成されるはずで、リバタリアンはそれ自体としては一貫したものの考え方ではないように見えて仕方ない。何故かというと、経済的自由と人格的自由を常に最大限にしようとするので無い限り、上記のどの人々も不完全なリバタリアン保守主義またはリベラリズムまたは権威主義に傾斜せざるを得ない。だから自称リバタリアンであるためには(そういう人がいるのかどうかは知らないが)、絶えず己の立ち位置をチェックする必要がある、という(文字化け修正200224)。

追記2

さらに、経済的な側面からリバタリアンを検討してみる。経済学において限りなくリバタリアンに近い(本分では「市場経済を支持する」立場の人々)のは本書によれば「新古典派」「シカゴ学派」「オーストリア学派」の3派閥とされている。が、森村によればこの3派が市場の自由を認める理由は各々異なるという。

まず「新古典派」においては、市場の有効性を認めるもののケインズ的発想にも賛成するため自由主義と計画経済の懸命な混濁が必要だという提案に傾くので、「新古典派経済学は、原理的に社会主義を批判することが出来ない」。次に「シカゴ学派」は市場に対する政府の介入を否定する。ただし市場観は「新古典派」のそれを共有している。最後に「オーストリア学派」は、新古典派シカゴ学派が持つ「完全情報の静的な市場観」とは根本的に異なった「情報が分散した動的な市場観」を前提にしている。

市場からではなく、別の側面からリバタリアンに支持を与える「公共選択学派」においては、「政治過程にも経済学のアプローチを導入」する。彼らは「民主主義的な政治過程であっても」「ケインズ的財政政策が財政赤字のとめどない膨張を生む」と考えているので、「政府の活動が本当に公益になるかどうかについて非常に懐疑的」である。

ここでも、やはりリバタリアンとは一種の分類作法である。

印象

何かめんどくなってきたので、あんまりダラダラ追記したくないのですが、以上見てきたようにリバタリアンとは一種の分類作法であるように僕には見えます。

例えば、思想的には彼らは「個人的自由(人格的自由)」を最高にするべきだと考えますが、「自由」の内実には触れようとしません。森村氏の解説ではリバタリアンは価値観とは個人の内で内包する限りにおいて尊重する思想みたいですが、それはいかにも学者的想定であって、実際に個人の尊厳が踏みにじられていないのだとすればそれは「たまたま」そういう人がリバタリアン的な世界観の持ち主が周囲にいる、という事に過ぎないと思いましたし内面では何を考えているか分からない人もいるでしょう。そうした人々を人括りには当然出来ませんが、しかしリバタリアン的に考えるなら内実的にどうあれ彼らが「自由を重視」するなら、彼らはリバタリアンと言えます。指摘された人々は困惑するでしょうが。

つまり出自はともかく(極論すれば、超自由主義アナーキストリバタリアン的な世界観では同居する事が可能です)、自由を重視すれば私達はリバタリアンになりえます。

また、経済的自由においても、上記だけで4つの立場があるにも関わらず結果的には政府の市場に対する介入に懐疑的であるか否定していれば「リバタリアン」と呼ぶ事が出来るわけです。どこからがリバタリアンでどこからがそうでないかを否定するのかは大変難しい。深く内実に詰め寄ればそれは相当なヴァリエーションを生み出してしまう。一種の認知限界です。

リバタリアンのメリット

では、こうした分類作法を採用するメリットは何だろうという話ですが、私はこう考えます。

例えば、私が重症の親バカでサラリーマンだとしましょう。毎日毎日娘と一緒に寝なければ仕事にも手が付かない。しかしその娘の笑顔が明日への活力なのです。私は娘が「より」文化的で安全で環境で勉強とスポーツの安全に励めるよう、地域の公立校の充実を考えています。

次に、私のが働いている業界では、古くからある国営企業が業界の既得権益を握っており中々思うように利益率が上がらない環境です。私は外資系企業に勤めており、かつまた外資が国内の割安な優良企業を合併しやすいように規制撤廃を願っています。

さて、ある日国会ではある事件をきっかけに内閣総辞職により総選挙の開催が決まりました。テレビや新聞では色々と騒いでいます。しかし、何か分かりづらい主張ばかりだし、党もたくさんあって良く分かりません。さて、彼はどのような選択をするのか…。

拙いモデルケースで恐縮ですが、こうした場合にもし私にリバタリアンの分類があればこういった状況はある程度なんとかなるでしょう。例えば政党に対して個人的自由を重視するのか、経済的立場を重視するのかまたはしないのか自己申告させてはどうでしょうか。成長を望む人にはどちらも重視されるべきでしょうが、私の場合には適度に国家に教育を丸投げしたいし、かつ食い扶持については規制は廃棄して欲しいので、そのように申告した政党を支持すると思います。逆を言えば、それ以上難しい事は判断しないかもしれません。

印象2

個人的には、リバタリアンという思想は私の嫌いな同調圧力を解除する思想であるわけだから、支持する、というのが原理的な回答となりそうだ…が、何かハイそうですかとまで言えないのが相変わらず中途半端。というのもリバタリアニズムの思想にかかると、福祉とか教育まで国家権力の増大だし(もちろんある種その側面はあるけど)、供給困難な財まで民間に委託されることになれば、それがいくら公共性を帯びていても供給が止まっても良いわけです。そのあたり嫌いな言葉ではありますが「常識」という観点から怪しすぎる。

より一般論的に言えば、リバタリアンを標榜する人々は道路公団みたいな「明らかな既得権益」と、「既得権益とも言えるけど比較的多くの人が利用しているサービス」(国民年金とか)を意図的に混同するのでウザイです。もちろん彼らの立場からすれば、国家が家計のお金を先取りするのは、極力あってはいけないのですが、そういう思想的貫徹を日常社会で通用させようとするヘンな革命主義が何か気持ち悪いというかなんというか。所謂左翼系からも右翼系からも支持が集まるという性質がリバタリアンにはあるわけですが、この思想を支持するのは、思想の徹底というより個人の資質が大きいのかな…と思った。ただし、人を一発で納得させるにはリバタリアン(or権威主義)が最高だという認識もまた本書で深まった、のだろうか。政治的には使えるレトリック満載だリバタリアン

また、上でも確認したようにリバタリアンの特徴を言うとすればそれは「分類」と「解除」なわけだが、実はそれ以上の事は何も与えてくれない。例えば私にとって「どの程度の自由が適切なのか?」という問いに対してリバタリアンは答えない。「いやいや、それは貴方個人の問題ですよ」という指摘があるだろう。では国に対してはどうか?この国に対して「どの程度の自由が適切なのか?」。実はリバタリアンではこの問いに対しても明確な回答が出せない。

では得られるメリットは何かというと上のように政治的なレトリックのみに過ぎないわけ、ですよ。「この政策は人格的な自由を侵している!」とか「この政策は国家の不当な介入だ!」とかさ。何かそいう「この作品はヌルイオタクのためのレイプファンタジー」的な釣堀スタイルというのは、イヤなんですよ個人的に。勿論こういう思想を徹底的に考えられる人はジェントルだと思うんですけどね。

長い割に相変わらず無意味なエントリーだった。