ハマータウンの野郎ども (ちくま学芸文庫)

ハマータウンの野郎ども (ちくま学芸文庫)

先日の続き。

  • 一方の極に機関銃をつきつけて輸送用トラックに駆り立てる方式が、もう一方の極みに自発的な勤労奉仕軍をイデオロギー的に形成する方式が、それぞれに位置するとすれば、私たちの自由な民主主義社会のやり方はこの中間のどこかにある。
  • 従順な生徒たちが尊重しようとするのは、あるがままの教師であるというよりは、むしろ教師としてあるべき理想像なのである。学校が掲げる教育目標にいかほどかは、自己を同化させ、学校制度を支持してきた生徒たちは(中略)、教師が学校の権威を少なくとも自分たちと同程度に尊重することを強く求める。羊飼いにその職責を思い起こさせるものは、何にもまして忠実な羊なのである。
  • 最初の出会いがセックスであっても、最後に落ち着く先はセックスの否定なのだ。否定とはいっても、もちろん、女性の第三者との交渉が否定されるということが基本だが、二人の関係においても性的な魅力はもはや支配的な関心事とはならないのである。ありうべき放埓は家庭という絆によってしっかりと防止されねばならない。
  • 年配の教員のなかには、1950年代の学校にあった「秩序と平成」が消えてなくなったのは60年代に移民の大量入国があったからだと、二つの因果関係を平然と口にするひとが多い。この教員たちの回顧のなかでは、50年代の学校がますます平和で順調であったように思えてくる。だから、<野郎ども>と教職員とは、それぞれに発想の違いはあるものの、平和を乱す侵入者に対する恨みの意識をやはり共有している。この意識の共有があるために、<野郎ども>の人種差別はそれだけ攻撃の力を強める。反学校のインフォーマルな世界は、こと人種問題にかぎっては、学校のフォーマルな世界に巣くう亡霊によって援護されているのである。
  • 他人によってどれほど厳しく管理される場合であっても、職場の労働者たちは自分たちでなしうることを実行に移し、その自前の実践のうちに楽しみを見つけ出す。それ自体は生気のないひからびた労役のあいだをぬって、およそ敗者たちの泣きごととはほど遠い文化が生きているのである。よそよそしい力が支配する状況を自分たちの論理でとらえかえすというこの逆説は、私たちが反学校の文化において見たものと同じものであり、また、無味乾燥の公式の制度のただなかで生き生きとした関心や気晴らしを根付かせる試みも、両者に共通のものである。そしてこれら二つの文化は、不快な環境から人間を包み守るたんなるクッションのような消極的なものではない。それらの文化に託されているのは、労働者や<野郎ども>の論理による環境の読みかえであり、物心両面の行動力を動員して彼ら自身の目的を達しようとする積極的な試みなのである。

続く。