屍鬼藤崎竜マンガ版と小野不由美小説版で平行読み。藤崎竜が真価を発揮するのは原作付きの時。以上。いやもう少し。藤崎竜というマンガ家は、デフォルメする対象が見つかった時、一番面白くなるヒトだと思った。それは原作、という場合だけではなくて、初期の短編等にみられるようにデフォルメや戯画化する対象やテーマが彼の中に見出された場合も含まれている。MANGAと呼ばれる電子体験を通して善悪の彼岸に置かれる少年や、コンプレックスの暴走について描かれた短編は全てどこか皮肉やインプリケーションを残して独特の余韻を残す。それが長編になればあらゆるキャラクターが戯画の対象と化していく一種のお祭り状態になるのがフジリューの真価かなという。あと原作と平行していると分かるキャラクタの端折りやキャラ改変も良かった。あーでもサクラテツとワークワークの迷走っぷりをみてるとやっぱり話の構成は別のヒトがつくってんのかなと思ってしまう。あと小野不由美ヴァージョンは完全に敏夫と静信がデキてるっていうお話で良いのか。寺、医者、村のハザマで揺れ動く二人の心はついに一線を超え・・・・みたいなゴールになりそうだ。

にしても、屍鬼=起き上がりという形は一種伝染病の暗喩であり実は閉塞感が充満した村人が村人を襲い続けていたのであった実は一番恐ろしいのは鬼ではなくて人間であったのだのだのだという一昔前のキング的なやや説教っぽい過疎地域の醜さをあぶりだすような作品かと思ったら全然そんなことなくてベタな展開にビックリだ僕は。